くても、そんなにおっしゃる?」
 伸子は、
「そんなにむずかしいものなら、着ない」
 そう云って、本当にそれが仕立てあがった冬は着なかった。
 藤堂駿平と佐々泰造とは、公式なつき合いばかりでない交際があるらしいことも、伸子は思い出したのであった。
「わたし、ちょっときいて来てみる」
 伸子は、郊外電車の停留場のわきにある酒屋から、佐々の事務所に電話した。
 勢いこんでかえって来て、伸子はすぐに縁側にまわった。
「よかった! 何とか考えましょうって――今来るようにって……」
 多計代は東北の田舎からまだ帰っていず、父ひとりの動坂の家を思うと、伸子は、素子を誘ってゆくにいい折だと思った。
「一緒に行かない?」
 旅券のことについて父にたのむのは、伸子の分ばかりでなかった。素子も行って会えば、たのまれる父の気持もよかろう。伸子は、そう思ったのであった。
「さあ……」
 素子としても、同じように考えるらしく、行ってもわるくなさそうにしていたが、
「まあ、やめとこう」
 皮肉な苦笑を浮べた。
「お母さんの留守には来るんだね、なんていわれちゃ、ちょいと癪だからね」
 伸子たちが老松町の家に住んでいたとき一二度、それからこちらへ越して来てからも二度ばかり、多計代が訪ねて来たことがあった。和一郎をつれたり、つや子をつれたりして。そのときは、素子も仕事をやめて一行をもてなした。けれども、多計代は、一度も改まって娘と一緒に素子を動坂の家へよぶことはしていないのであった。
「わたしは、いずれお父さんの事務所へでも伺うから、よろしくいっておいとくれ」
 秋の夕暮れらしい渋谷の雑沓のなかを、伸子は気をせいて、二つの電車をのりかえ、家のある高台に向う坂道をのぼって行った。その横通りには、昔から屋敷の間にはさまって、日本橋の方に店をもっている有名な書籍文具店のインク製造工場があった。丁度そこがひけどきで、小さい銀杏がえしや束髪にした少女の女工たちが、伸子のゆく細い道を群れて来てすれちがった。昼ごろには、その細い道に向って開いた工場の門のよこてに、年よりのおでんや[#「おでんや」に傍点]が屋台車をひいて来て止っているのをよく見かけた。すると工場の中から、かたあげのある紺木綿の筒袖をきて、同じような紺木綿の前かけをかけた少女の女工が、てんでに皿や小鉢をもって、椎の大きい枝の下に店を出しているおでんや
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