れば、そこの生活の実際がわかるだろうし、それにつれて自分というものやその生きかたもわかって来るだろうと期待するのであった。
「うまく説明出来ないけれど……わかる? 自分を砥石《といし》にかけてみたいの。だから、わたしロシア語なんか知らなくたっていいわ。そこで生きてみるんだもの……」
「それゃ、ぶこちゃんらしい」
 素子は、しばらく黙って考えていたが、
「どだい、君とわたしとは同じ行くにしろ目標はちがうんだからね」
 その点を、改めて自分たちにも明瞭にするというように素子はゆっくり云った。
「しかし、そうきまったらきまったで、早速動き出さなくちゃ」
「そうだわ、旅費もないんだもの……」
 実際的なテムポで云い出す素子にそう答えながら、伸子は、
「ああ、あ」
 長い溜息をついて、卓の上にさしかわした自分の腕へ頬をのせた。
「なんて、ひと仕事だったんでしょう」
「何が?――きまるまで?」
「だって、わたしたち、惰性だけで動くの本当にいやだったんだもの……あなたの方だけ、どんどんはかどって、わたしがそれでもまだわからなかったら、どうしようと思っていたんだもの」
「…………」
 素子は、再びその棗形の小麦色の顔を薄く染めた。そして、黙ったままつやのこもった視線で伸子を見た。そのつややかな眼は、伸子に同じ素子がこのあいだ自分を見た別の目を思いおこさせた。わたしは君にくわれるのはごめんだよ。そう云って伸子を見つめたときの素子の目つきを。それは暗く、一定のところからよせつけまいとするような色であった。伸子は、いま素子の眼をみたしている明るさと、あの暗さとの間にたたみこまれている微妙なこころのひだを感じた。伸子は笑いのかげにある口もとですこし意地わるくきいた。
「あなたは、どうきまりそうだと思っていた? どうきまったら一番いいと思っていた?」
 素子は黙ったまま新しいタバコに火をつけ、それをすった。
「結局、こうなるのが一番自然なきまりかたなんだろう……よかったさ」
「…………」
 伸子は、太平洋航路の大きな客船が、横浜の埠頭から次第次第に沖へむかってはなれて行ったときの光景を思いおこした。銅鑼《どら》が鳴り、渡りはしごがひき上げられ、音楽やテープの色どりのうちに、そろそろと巨大な客船は岸壁をはなれる。最初に、気もつかないほど細い藁や果物の皮などのういたきたない水の幅が岸壁と舷側との
前へ 次へ
全201ページ中170ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング