つしらないで行くわけにも行かないじゃないか、ぶこちゃんだって買えばいいのさ、どっさり積んであるよ、東京堂に」
 ウメ子が、その言葉に注意をひかれていくらかためらいながら、
「――どっかへいらっしゃるんですか?」
ときいた。素子は、
「ああ、」
と、自分で自分の言葉に不意うちをくったように少しまごついた。
「まだはっきりきまったことじゃないんですがね――わたしもどうせ一生ロシア文学の翻訳で暮すんなら、思いきってひとつソヴェトへ行ってきたいと思って……」
「まあ!」
 ウメ子は、まぶたの上にさっと艶を浮べて、
「いいこと! 是非いっていらっしゃい」
 独特の謙遜な態度で賛成した。
「いらっしゃれたら、本当に結構ですわ、わたしまでなんだかうれしくなっちゃった」
 なっちゃった、というところを、いかにも東京ッ子らしい歯切れのいい調子で早口に云って、ウメ子は、身幅のひろすぎる借着の浴衣の中で首をすくめた。
「――伸子さんもいらっしゃるんでしょう?」
「わたしは、お金がないの」
 すると素子が、幾分からんだ口ぶりで、
「金だけの問題じゃないんですよ」
と云った。
「相かわらず手がこんでるんですよ……動機がまだ熟さないんだそうだ」
「だって――それはウメ子さんは、わかって下さると思うわ。あいまいで、行くようになってしまったりするの、惜しいんですもの。度々行けるところでもないんだもの」
 動機ということを云えば、名も告げない白い浴衣のひとが来て云ったことで、伸子は、自分のわからなさの凝集作用ばかり見つめていたような状態から、つきとばされて、そとへころげ出たようなところがあった。わからなさのそとに、わかるべきことが存在していて、むしろ、そっちに意味がありそうに思えるようになって来ているのであった。
 ウメ子は、その晩伸子たちの住んでいる郊外の家へ泊った。翌日のひる前、帰ろうとするウメ子に、素子が実際家らしい調子で念をおした。
「旅行の話ね、あれはまあいまのところ全く確定していないんですから、そのつもりで、たのみますね。いい恥っかきだからね、じたばたしてあげくの果に行けなかったなんてのは――」
「ええ。大丈夫です。誰にも云いませんから……」
 玄関へ出ながら、ウメ子は濃い長い眉をあげるようにして、
「しかし、本当に実現なさるといいですね」
 伸子をかえりみて、云った。

 うすい灰色の
前へ 次へ
全201ページ中164ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング