ンナがモスクワへ来てはじめて夜会に出かけた晩の美しさ。そしてまた、ウロンスキーと恋愛におちいったのち、良人カレーニンの書斎で、女としての解放を求めて冷血なカレーニンに迫ってゆくあの生命に溢れ、必死な真実に燃えたった情景。ああいう風に、まざまざと人間とその生活とがたぎっている小説がかけたら、と思いこんでいるのぞみのなかで伸子には、ブルジョア・リアリズム、プロレタリア・リアリズムという区分の意味がわからないのであった。
「どっちみち、ほんとにちゃんとした小説がかけるようになりたいわ、ねえ。それは同感でしょう?」
 伸子は、つよい憧れを顔にあらわして云った。
「プロレタリアの生活もブルジョアの生活も、ひっくるめたようなリアルな小説がかきたい。社会はそうして動いているんだもの――リアリズムって云うのも、そういうもんじゃあないのかしら……」
「…………」
 ウメ子はちょっと伏目になったような真面目な表情で、自分の意見は云わず伸子のいうことをきいた。しばらくみんな沈黙していると、素子が、男のように腕をくんでいた片手でパイプを口からとりながら、
「われわれには、階級ってものがよくわかっていないから、どうもすべてはっきりしないのさ」
と云った。
 伸子は、ほんとうに眼を大きく見ひらいてそういうことを突然云い出した素子を見た。素子が、そんなことを云う。――全く思いがけないことだった。
「……あなたはわかっているの?」
「そうはっきりわかろう道理がないじゃないか。けれどさ――どうも、そういうものらしいというのさ」
「…………」
 いつの間に、素子には、そういうことがわかったのだろう。この間京都へかえっていた間も、素子は祗園のおつまはんのところで夜明ししたりした。帰ってからも日常のこまごましたことに関心を示して、すべては相変らずに見えるのに、その素子から自分たちの生活の中では云われたことのなかった階級というような言葉が云われた。これは伸子をおどろかした。軽薄というところがないウメ子が、黙って素子を眺めた目の中にもそのおどろきが映っている。伸子は、からだをよせてゆくような調子で素子にきいた。
「どこで、そんな勉強してきたの?」
 素子は、顔をあかくし、例の、顎を下からなで上げる手つきをした。
「うちじゃあ、いつもぶこちゃんだけが物知りでなくちゃならないってわけもないだろう」
「意地わる云わ
前へ 次へ
全201ページ中162ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング