、
「保ちゃんて、大した子だ」
そういって伸子に話した。保が通っていた小学校は師範の附属で、春日町から大塚へ上る長い坂を通った。その坂は、本郷台から下って来て、またすぐ登りかかる箇所であったから、電車はひどくのろく坂をのぼった。ある朝、保がそういうギーギーのぼるのろくさ電車に乗っていると、それを見つけた同級生たちが、面白がって電車とかけっこをはじめた。ほとんど同じくらいに学校についた。ハア、ハア息をはずませながら男の子たちは先生! 先生! 僕たち電車とかけっこして来たんですよ、と叫んだ。そしたら先生が偉い、偉い、とほめた。「でもお母様、僕、ほめるなんて変だと思うなア。そうでしょう? 人間より早いにきまっているから電車を発明したんでしょう。心臓わるくしちゃうだけだと思う、ね、そうじゃない?」子供の保はそう考えたのであった。
伸子は、今保と話していて、幼かったころの電車の一つ話をまざまざと思いだした。電車と男の子たちとのかけっこについて保の示した判断は、子供として珍しい考えかたに相違なかった。けれども、今、机の前にゆったりと掛けている青年の保が、同級生たちを批評している、その批評と同じように、本当のところもあるにはあるが、どこかでもっと大切なピントがはずれているように思えるのであった。
伸子には、自然と越智という人物と保との関係が思われた。保は越智を衒学《げんがく》的と思っていないのだろうか。議論のための議論をしない人と感じているのだろうか。師弟関係がなくてむしろ若い女の感覚で越智をうけとっている伸子は、彼を衒学的な上にきざな男と思っていた。多計代が伸子に、
「伸ちゃん、お前シュタイン夫人て知っているかい」
そうたずねたことがあった。伸子は、
「シュタイン夫人て――」
見当のつきかねる表情をした。
「調馬師の夫人ていうシュタイン夫人のこと?」
ゲーテとエッケルマンの対話が訳されて間もない頃で、一部にゲーテ熱がはやっていた。多計代がゲーテと情人関係のあった宮廷調馬師の細君に、なんのかかわりをもっているのであろう。多計代は、素朴に、
「大変きれいな人だったんだってね」
といった。伸子は笑い出した。
「ゲーテをアポロっていうような人たちは、ゲーテのまわりの女のひとを、みんな女神みたいに思うのかもしれないわ」
「そういう皮肉をいう」
「――でも、どうして? シュタイ
前へ
次へ
全201ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング