で謡った一曲は、小規模であるが精煉されていることとその気迫で震撼的な感銘を与えた。日本の封建文化の磨き上げから生じた艶、量感が感じられた。

 伸子は、だまって楢崎夫妻やその師匠、相川などの間に交わされる話をきいていた。それは全く大人の話しぶりであった。伸子は自分をまるで羽根の生え揃わない不器用なひよっ子のように感じながら、坐っていた。しばらくしてから、佐保子が、画帖と硯をもって来た。師匠が、肉太な書体で自分の名だけを書いた。新しい頁をひらいて、画帖は伸子の前にまわされた。伸子は、当惑した。画帖に書いたことがなかった。そういうものに書くということが、なんだか年にも柄にもふさわしくなく思えた。伸子は、困った様子で、かたわらの佐保子に、
「わたしはかんべんして――字なんか下手なんですもの」
といった。すると、佐保子は、
「そんなことわかっていますよ、誰もあなたの字が上手だとは思ってはいないのだから、さっさとおかきなさいよ」
といった。
「なんて書くの?」
 伸子は、こういうものに、なにをなんとかいていいのか見当がつかなかった。
「わからないわ」
 いくらかもどかしそうに、佐保子はその卓の上に出ていた謡本を手にとった。そして、偶然一つの頁がひらいたとき、その一くだりをよんだ。
「じゃ、これでも書いておきなさい」
 それは、いとどしく虫の音しげきあさぢふや、という文句であった。伸子は、その文句が、自分の今そこに坐っているこころもちの静けさとは反対であり、むしろ、伸子のとりなしのぶま[#「ぶま」に傍点]さにもどかしさを感じる感情のリズムにあった文章のように思えた。しかし、筆をとって、卓の上にひろげられた画帖の上に、風趣のとぼしい不確かな字で、いとどしく虫の音しげきあさぢふや、と書いた。画箋紙は墨をはやく吸って、たどたどしい伸子の筆あとは、一層ぎごちなく見えた。伸子は汗ばむような思いだった。
 画帖は、相川良之介にまわった。彼は、その夜、白地に蚊がすりの麻の上に、夏羽織を着ていたが、もち前の慇懃な身ぶりで、画帖をすこしさかのぼってめくった。それから、新しい頁をひらいて眺めていたが、一寸座蒲団の上で体をずらせ、みんなが視線をあつめている卓の上から硯と画帖とを自分の左手の畳の上におろした。そして、じかには誰の視線も届かない方を向き、身を折りかがめて、なにかをかきはじめた。伸子のとこ
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