は華やかなよく響く調子で客と応待する母の声が、きょうはひとつも外へ洩れて来ない。不自然な気分で、伸子は廊下一つへだてた食堂の一方だけあいているドアから入った。
寂びた赤うるしで秋の柿の実を、鉄やいぶした錫《すず》で面白く朽ち葉をあらわした火鉢に鉄瓶がかかっていた。炭がきれいにいかったまま白くたっている。部屋の気配は、ここにもう長い間坐っているひとがなかったことを感じさせた。
女中が出て来て、
「いらっしゃいまし」
よそのお客へするとおりのお辞儀をして、お茶をいれた。
「お父様山形なんだって?」
「さあ……」
伸子が名もはっきり知らないその女中は、主人のゆくさきを知らないのは自分の責任ではないという風に、からだをよじった。
「ゆうべ、お立ちになったことはなったんでしょう」
「はあ……」
「まあ、いいわ、ありがとう」
畳の上に絨毯《じゅうたん》をしき、坐って使う大テーブルを中央に据えてあるその部屋は、半分が洋風で片隅に深紅色のタイルをはった煖炉がきってあった。その煖炉の左右は、佐々ごのみで、イギリス流の長椅子になっている。その上に、どてらが袖だたみのままおいてあった。それは父のどてらであった。
伸子は、ハトロン包みの花をもって風呂場へ行った。洗面器へ水をはって、ハトロン紙につつまれているままのバラの花をそこへつけた。それから壁にとりつけてある鏡に向って、髪をかきつけた。
単純なその動作を終ると、伸子はたちまち次には何をしていいのかわからないような、とりつき場のない当惑にとらわれた。越智が来ている客間へは、どうにも入っていけないものがある。保のための家庭教師、高等学校へ入る試験準備の間、指導してもらった若い教育者である越智圭一は、はじめのうちは佐々の家庭にとって、みんなに一様の越智さんであった。勉強するときのほか、越智は食堂で雑談したし、客間で画集を見たりしている越智のまわりに、保も稚いつや子も出入りしていた。
保が東京高校へ入学したのは前年の春であった。その夏、若い越智夫婦が田舎にある佐々の家に暮し、伸子はあとからそのときの写真をみせられたことがあった。大柄の浴衣をきて、なめらかな髪を真中からわけて結び、やせがたで憂鬱な情熱っぽい純子という夫人が、白服できちんと立っている越智と並んでうつっていた。夫人のからだにあらわれている、しめっぽくて、はげしそうな表
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