た。
「わたしが、御秘蔵娘だったら、あなたなんか一日だってつきあっていられないくせに……」
「それゃそうだ」
 前崎の家が、もしこんど多計代にとって激情からの難破をふせぐための一つの港となるならば、あの家にもいくらかの意味があった。多計代が反対の使い途を考えて、前崎へ行ったとは伸子に想像されなかった。
 伸子は親たちと家屋や土地との関係を段々考えて行って一種のおもしろい心持になった。泰造は、小規模に自分の趣味を示す前崎の家を建てたり、実務的に税のないうちにガソリンのいらないヨーロッパ製の小型ビインを買ったりした。けれども、佐々の家には一軒の貸家も、収入となる一ヵ所の地所もなかった。それがあれば、ひとりでに儲かってゆくというような家とか地面とかをためていなかった。そういう点で泰造の生活態度は仕事に自信のある技術家らしい淡白さだった。多計代がむしろそういう点に用心ぶかさと積極性をもっていた。それにしろ十何年も昔、多計代がひどく意気込んで雪の日に見に行って買った北多摩の地面は、四季を通じてそこから富士が素晴らしくよく見えるというのがとりえなばかりで、地価さえろくにあがらず、今だに麦畑のままであった。
 その日は、素子の母の命日というので、素子が甘いもの好きであったひとのためにおはぎをこしらえはじめた。御飯がすこし柔らかに炊けすぎて丸めにくい。家じゅう三人の女が台所の板の間でさわいでいるとき玄関へ誰か来た気配がした。とよが、手を洗って出て行ったが、眼のすわったような妙な顔つきで戻って来た。
「――こういう方が見えましたけれど……」
 水を拭かないままのうす赤い指さきで、方眼紙の小型ノートのはしをむしった紙きれを出した。太い鉛筆で乱暴に「黒色連盟 山田」と書いてある。
「…………」
 素子も伸子も知った名前でなかった。
「なんだろう」
 とよが、気味わるそうなひそひそ声で告げた。
「三人づれの方でございます――ぼうぼう髪をのばして……何だか人相のよくない方なんですけれど……」
 素子が、少しおびえた心持を、おこったような顔の上にあらわして、
「なんだい!」
といった。伸子には、いくらか思い当るところがあった。その時分、アナ・ボルということがいわれていて、黒といえばボルの赤に対してアナーキストのシムボルであることは知っていた。そういうグループの人々が、丸の内辺の会社や有名な人々
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