――どうせおきていたんだからかまいやしないけれどね」
伸子はピアノのふたをしめ、お召の短い丹前を羽織った母の肩を押すようにして洗面所の方へ廊下を歩いた。
「顔、まだ?」
「ああ――。お父様ったら、どうしてああなんだろう」
「ああって?」
「ひとがどんな気持でいようが一向おかまいなしだからさ。――どうしてああ寝られるんだろう」
多計代は、泰造はじめ家族のものがみんなでつかっている瀬戸の白い洗面台をつかわず、自分だけ、わきの流しで別に白エナメルの洗面器をつかった。多計代は、踏台になる木の腰かけにかけ、ガスの湯わかしから洗面器へ湯のたまるのを待ちながら、
「伸ちゃんは、物質主義だからあたりまえのことだろうが、わたしにはお父様の何ぞというと、食わしてやっている、がじつにたまらない」
満足に眠らなかった一夜があけて、母の心持には、父とちがって、きのうからの続きがはっきりつながっているのであった。いつの間にか自分が、物質主義ときめられているのを伸子はおどろいた。複雑ないろいろの感情や思想をこまかく表現する習慣をもっていないで、いいあらそって苦しまぎれになると、泰造は、食わしているをもち出す。そういう父と母とを、伸子はゆうべどんなこころもちで眺めていたろう。煖炉棚の上にギリシャの壺が飾られて居り、母の指にはダイアモンドがきらめいている。それらの光景の中ではかれる、食わしてやっているという言葉は、伸子を刺した。趣味とか品位とかいうものの不確かさ、女の生活というもののむきだされた根の無力さをおそろしく感じさせられたのであった。
保もつや子も学校へゆき、和一郎は相変らず留守のひっそりとしたおそい朝食をすました。伸子は、何となし母の機嫌をつくろう気になれず、そろそろ、かえり仕度をはじめた。
「おや、もうかえるのかい?」
ひどく不意うちのような表情になって多計代がきいた。伸子はそのとき立って、煖炉前のテーブルにおいた手まわりのものを集めようとしていた。
「そんなにいそぐのかい?」
下から見上げる多計代の視線に、伸子は、袂のさきをつかまえられたような感じがした。
「何か用?」
「――用ってわけでもないけれど……」
多計代は、いまのうちにきめることがあるという風な、いくらか心の内でまごついた調子で、
「ともかく、もうすこしおいで」
といった。
「お寿司でもたべておかえりよ」
伸
前へ
次へ
全201ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング