じっとしていると、伸子には、佐々の家も、この数年に、随分変って来たことがしみじみ感じられた。
変りかたは、眺めている客間の庭の様子にも反映していた。伸子が幼なかった頃の佐々の家は、家全体が茶室づくりに按配されていた。門からの入口も、台所へまわる細い道も、風雅につつましかった。それが、近頃自動車をおくようになってから、門からの細道は石だたみとなり、車庫の位置によって、台所への道がひろげられた。そのために、客間の庭の奥ゆきが何尺か削られた。もとは石燈籠と楓、松などの植えごみの裏に、人一人とおれるほどの砂利じきのゆとりがあって、ゆきとどいた庭のつくりであった。それは自動車の道のためにこわされた。植木屋がそれにつれて石燈籠を前の方へもち出してすえ直した。松の枝かげを失い、楓の下枝からむき出された燈籠に、納りをつけようと、無造作に青木が植えこまれていた。燈籠は、我からその位置を悲しむように、庭の真中へとび出て立っている。
伸子の父は、建築設計家であった。それだのに、どうして、こんな有様にしてしまって、みんながそれに無頓着で平気なのだろう。それは、この地味な八畳の土庇のついた室やそこの庭が、佐々夫婦のこの頃の生活気分から重要さと愛着とを失われていることを意味していると伸子は思った。
伸子が二十歳ごろ、まだこの家に娘として暮していた時分から、客室は次第に腰かける方がつかわれるようになった。水色と白の縞の壁紙がはられ、イギリス好みの出窓、その下につくりつけられた木の腰かけ。いかにも明治四十年代の初期に、その年代とおない年の日本の建築家であった父が、使える金のささやかな範囲で、自分の空想を実現したという工合の洋風客間は、柱も節のある質素なものであった。若葉の季節になると、出窓のビードロ玉のようなガラスが海の底にでもいるように新緑の色を映すので、伸子の少女の心はその美しさに奪われた。
パンヤ入りのクッションがところどころに置かれていたその室の調度は年とともに、いつしか変った。この節は佐々の陶器の蒐集棚が立ち、メディチの紋が象嵌《ぞうがん》してあるエックス・レッグスの椅子などが置かれている。第一次欧州大戦の後、日本の経済は膨脹して、全国に種々様々の大建築が行われた。丸の内の広場に面する左右の角に、東京で最初の鉄筋コンクリート高層建築が出来た。佐々と今津博士との協同で経営されていた
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