危い思いをして郵船にかけると、わざわざT氏が出て来られ、事情をきき、温い言葉で慰められたとき、自分は手を執って謝したい心持になった。
 ちょうど、一人婦人で契約の曖昧な客があるのだそうだ。
 早速その方を確めて、出来るだけ便宜を計ってくれられることになった。若しそれが好都合に行けば、「十二月の三日にシアトルを出て、二十日前後には、東京にいられよう」というのである。
 万事を氏の好意に一任して、とにかく、自分達は正金に出かけた。旅行券の裏書をして貰うために、領事館へも行かなければならない。――
 今まで、種々な意味で自分の感興を牽《ひ》いていた街上のさまざまな情景は、一時に光彩を失ってしまった。
 心の中には、重苦しい、点と点とが出来た。それを、事務的な行動という連鎖で結びつける必要から、眼は、ひたすらそれ等の点ばかりを見つめて動き廻る。街路はただ或る処に行くためにあるく路、地下電車《サブウェー》は、或る一点に、出来るだけ速く体を運ぶ交通機関と、生活は、すっかり潤いと興味とを奪われてしまったのである。
 馴れない下町の喧囂《けんごう》の裡に半日を費して、帰ると、T氏から電話で、船室はとうとう自分のために割かれることになった。
 金を送り、Acanthus, Tokyo. という略号で、故国の家へ帰朝を知らせる電報を打った。
 これは、父が、自分と一緒にこちらへ来たとき、留守中の事務のためや万一の場合の用心に、登録して置いたものであった。それが、今、こんな便利を与えようと、誰が思っていただろう。
 電信取扱所の、高いカウンターの上に両腕を置き、今度は、こちらに独り遺る良人のために Dervish, New York という略号を選んだとき、私の心は寒いほどに翳《かげ》った。
 ――もう、どんなに周章《あわ》てても、気を揉んでも、来月三日に船が出るまでは、何も仕様がない。
 毎朝、毎朝、今日は手紙が来るか、今日は電報が来るか、と期待に緊張しては、親しい教授や友人に、さようならを云って歩いた。
 突然で、自分さえも信じられないほどだ。帰らなくては駄目そうですから、と云いながら、心の中では、どんなに、その不必要を確証する報知を握りたく感じただろう。
 故国の父母は、もちろんまた自分がそんな決心をしたことも知らないのは判っている。それだのに、今、目を覚したら、ほっと安心して、万事の予定を崩してしまう吉報が来ていはしまいかと、朝起る毎にいい難いストレーンを感じるのだ。
 心が、我知らず敏感になった。友が、今度の出来事に対して、どれだけ真実な重大《イムポータンス》さを感じてくれるか、心持の悪いほど、覚らされた。
 自分が結婚を決心したときと、今のこととで、私は、平常快活な遊び仲間として、親切で愉快な友人が、しんに、どんな性格と意向をもって生活しているか少し辛辣すぎるほど、知ることが出来た。
 次から次へと、深い感動の連続で、紐育を立つべき日はだんだん迫って来る。然し、五日に手紙を貰って以来、故国からは、一葉の葉書さえも来ない。いよいよ立つほかない。
 朗らかな小春日和の十八日、自分はなお衷心では思い惑うような感じを抱きながら、自動車に揺られて、停車場に行った。
 来年の四月頃になったら、ほんとうの書生旅行でいい、欧州へ行こうと云っていた自分等の希望は、この次何時実現されるのだろう。
 闇をついて駛る列車の、明るい車室にカタカタ、カタカタ揺れ、煌く窓硝子を眺め、自分は、思わずその中に写っている良人の顔を見つめた。
 同じ汽車で数日を暮すのに、また、ロッキーを越えて行くのは変化がない。ただ通るだけでも南を廻って、シアトルに行こうというので、今度の旅程が定ったのである。

        三

 夜、十時頃、列車は、いつ聴いても懐しい響を振撒きながらワシントンの停車場に入った。一時間ばかり停車するという。
 華盛頓《ワシントン》に着くまでは、と云って、寝台《バース》も作らせずに置いた人々は、皆、外套をつけ、帽子を被って歩廊に下りた。
「少し歩いて御覧になる?」
「ああ、出て見ましょう」
「帽子なしでもいいわね」
 素頭に快く夜気を感じながら、私どもは、地下から長い段々を昂《あが》って、待合室の方へ行って見た。
 乗込もうとする人は、もう皆、下へ行ってしまったものと見え、広大なウェイティング・ルームには、人影もない。
 高い円天井の下に、低く据っている空虚な腰掛の規則正しい列、靴音の反響するやや暗い広間では、白い柱列《コラム》や大きな硝子扉が、淋しく強く眼に写る。
 拱廊《アーケード》になった正面入口まで出て見た。が、到る処に、風のない初冬の夜が満ちている。
 去年の十二月始め、自分は父に連れられて、四五日をここで費した。そのとき、モント・ヴァ
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