んな応答を聴いている。それは、何だかふだんとはちがう夜に感じられるのであった。
翌る朝目が醒めると、もう家じゅうが開け放されていて、おばあさんが一人で茶の間にいる。生憎曇って、茶の間からいつも見える山がその朝は見えなかった。それでも、弟たちがステーションへ先発した。おばあさんと私とは俥で、後から家を出かけた。
ステーションの在る町は村から小一里離れていた。田圃の中にポッツリ一軒唐傘屋があって、そこから次第に餅屋、蚕種試験所と町並が始るのであったが、恰度《ちょうど》二台の俥がつづいて左手に高い石崖のある小学校の角を停車場通りに向って曲った時であった。ジリーンと妙に濁ったベルの音が一つ響いたと思うと、二間ばかり先を駈けていたおばあさんの俥が、幌へ風でも孕んだような工合にスーと後へ顛覆した。極めてゆるやかに、極めて軽やかに梶棒を上にしてひっくり返った。私をのせた若い車夫は惶《あわ》てて体を反らせ、惰力を制して止った。いそいで降りて、ひっくり返った俥の横へ行くと自転車が一台ラムネ屋の屋体の下に横倒しに放《ほっ》ぽり出されていて、夏羽織姿のおばあさんは俥夫と衝突したどこかの小僧とに扶けられてもう地面に立っていた。何とも云わず、あたりまえに蝙蝠傘を突いてそこに立っているが、片方の手をあげて抑えている額は蝋のように血の気を失っている。まわりに人だかりもない。この瞬間、異常な出来事が信じられないように夏の午前の空気は透明なままに澄んでいる。
私はおばあさんを支えて、そろそろと前の牛肉屋の店頭まで行って、そこの店先をかりて腰をおろさせた。俥夫を薬屋へやって、葡萄酒をとって来させた。その牛肉屋の店先には茂った葡萄棚があるので、おばあさんの滑らかな小さい額は一層蒼ざめて見えるし、その下で口元へさし出す葡萄酒の赤い色はコップの中に重く沈んでなお濃く見えるのであった。
暫く休んでから、改めて近くの医者のところへそろそろと歩いて行った。玄関で私が書生に訳を話していると、簾《すだれ》の奥から浴衣姿の年とった奥さんが、
「まアおばん様、あぶなかったのし」
と国言葉で云いながら出て来て、祖母を扶けて座敷へ上げて呉れた。
そうこうしているうちに汽車に乗るはずの時刻は夙《とう》に過ぎた。絣姿の弟たちはステーションでさぞ待ちかねて不安でもいるのだろう。私は、
「おばあさん、きょうはおやめにしまし
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