]えば世界最大のものだが、これなんか、御覧なさい。現在生産しているのは肥料ですよ。ドイツの農業を躍進させたのはレウナだという位だが、一旦ことがあればこの大工場が、そっくりそのまま強力な軍需工場に転換するような設備をもっている。日本でもだいぶこのごろは生産の合理化っていうことが云われて来ているらしいが、どうして! どうして! ドイツのやっていることにくらべれば、おとなと子供だ。――まあ、それにしろ云わないよりはましですがね」
そして、津山進治郎は、伸子たちにもっとすすんだ説明をした。
「御婦人のあなたがたには無関係なことだろうが、これというのも、ドイツが戦後、高度なトラスト法をとるようになって、はじめて成功したわけです。トラスト法というのはね。『わかれて進み合してうつ』という有名なモルトケ将軍の戦術を、産業上に応用した独特の方法なんです」
こういう話のでたのは木曜会員の一行がベルリンの下水工事を見学し、解散したあとのことで、津山進治郎、伸子、素子の三人がその辺の小店で昼飯をたべたときのことであった。津山進治郎の話がすすむにつれて伸子の眼は次第にみはられた。しまいにはくいいるような視線で彼のきめの粗い、ほこりっぽいほどエネルギーにみちた顔を見つめた。伸子は、しんからおどろいたのだった。資本がますます独占されてゆく形として第一次大戦後のドイツにトラストが発展して来ている。それは世界平和の危険として注目されているのに。――ドイツの少数の企業家たち、軍需企業家たちが寡頭政治で独裁権をつよめて来ているからこそ、ドイツの大衆の固定的窮乏と云われるものが生じているのに。――伸子が、おどろきと、好奇心を動かされたのは、津山進治郎が、トラストというものを、ほんとに彼の説明どおりのものとして――モルトケ将軍の戦術という側からだけ理解しているらしいことだった。何につけても、ドイツの再軍備の面に関心を集中させている津山進治郎は、ドイツが国をあげてこの次の戦争には是が非でも勝とうと復讐心をもって準備している、そのあらわれとして、トラストも説明してきかせるのだった。彼の話をきいていると、トラストやコンツェルンというものは、ドイツの軍国主義から発明されて、ドイツにしかないものであるかのような錯覚があった。石炭液化とか人絹工業のように。でも、伸子がよんだり聞いたりしてもっている知識や実例のどこをさがしても、トラストは、資本主義の経済のしくみそのものからおし出されて来る資本集中の過程だった。そうでないなら、どうして、こんにちのヨーロッパの経済を動かしているものは僅か三四百人の実業家であると云われているのだろう。三四百人の軍人であるとは云われないで。――
産業合理化はドイツの国内に進んでいるばかりでなく、製鋼その他は国際カルテルにまでひろがっているということを、津山進治郎は「新興ドイツ」の制覇として話すのだった。おそろしく素朴で、しかも自分の云っていることにゆるがない確信をもっている津山の話しぶりは、世界経済についてよく知らない伸子をも、ますます深くおどろかした。
「じゃあ、津山さんも、またああいう戦争がおこった方がいいと思っていらっしゃるの?」
「――いいというわけはないが、どうみたってドイツとして、このままじゃすまんでしょう」
「どこが相手?」
「そりゃ、ドイツにとって伝統的な敵がある」
それは、フランスというわけだった。
「むこうだって、このまんまの状態が永久につづくとは思ってはいない。国境に、あれほど大規模な要塞建造をやろうとしているじゃないですか」
フランスに対してばかりではなく、ドイツの一部には、国境の四方へ憎しみの目をくばっている人々がある。それは伸子もわかっていた。でも――
「もう一遍戦争すればドイツはきっと勝つと、きまってでもいるのかしら」
「そんなことは、時の運だ」
いかにも伸子の女らしいこわがりと戦争ぎらいをおかしがるように、津山進治郎はこだわりなく大笑いをした。
「ドイツとしちゃ飽くまで勝つべくやるのさ。それが当然だ、そして十分の可能性がありますね」
「――へんだわ」
伸子が若い柔かな体ごとそこへ坐りこんだような眼つきになって津山を見つめた。
「そんなことしたって、やりかたがもっともっと残酷になって行くばっかりじゃありませんか――土台を直そうとしなけりゃ……」
一九一八年十一月七日、ドイツの無条件降伏のニュースがつたわって、酔っぱらったようになったニューヨーク市の光景が閃くように伸子の記憶によみがえった。ニューヨークじゅうの幾百というサイレンが、あのときは一時に音の林を天へ吹きつけた。ウォール街《ストリート》を株式取引所の横道へかつがれて来たカイゼルの藁人形に火がつけられ、その煙が流れる往来でニューヨーク市民は洪水のような人出によろけながら笑って、叫んで、紙ぎれをぶつけあって、見も知らない男女がだきあって踊った。夜じゅう眠らないでニューヨークの下町に溢れた群集は、どの顔も異様な興奮で伸子にとってはみにくくおそろしかった。征服欲の満足と歓喜で野蛮になっている群集の相貌というものを、伸子はそのときはじめて見たのだった。それからひきつづき伸子は心のうちに深い疑問をめざまされたものの目色で、次第に虹の色をあせさせながら実利の冷たさにかたまってゆく人道主義的な標語と、ニューヨーク・タイムズにあらわれる兇猛な辻強盗《ホールド・アップ》の増加と、ヨーロッパから着く船ごとにエリス・アイランド(移民検疫所)へおくられるおびただしい戦争花嫁と戦争赤坊の写真を見たのだった。伸子が痛感したのは、世界大戦について最も厳粛な感想をもっているのは、必ずしも平和克復という舞台の上でいそがしくしゃべっている人々ではないということだった。夫や愛人や父をもう二度とかえらぬものとして戦死させた家族の思いは、大戦を通じてその富を益々ふくらませた「永遠の繁栄」の、厚かましいほどの溢れる元気とは、おのずからちがったしらべをもって戦後というものを生きている。そのことを伸子は感じずにいられなかった。得意と、偽善に気づかない一人よがりで生きているものへの反感が、伸子の場合には自分の育った家庭の空気への反撥ともつれ合った。佃と結婚するようになって行った伸子の気もちは伸子自身がそれほど自覚していなかったにしろ、もえる大気のように不安定にゆれていた一九一八年の秋からのちの雰囲気ときりはなせないものだった。
「わたしは戦争ってものは、むごたらしいものだと思うの」
なお苦しげなまなざしを津山の眼の中にすえたまま伸子がつづけた。
「そして、悪いことだわ。一番わるいことは戦争で得をする人間に限って、決して自分で戦争しないですまして来ていられた、ということよ。津山さん、そうお思いにならない? そして、戦争なんて、ほんとにひどい間違ったことだっていうことを決して正直に認めようとしないことだわ。むき出しの資本主義の病気だのに。愛国心だの、正義だのって――何て云いくるめるんでしょう」
伸子はつきささるような口調になって行った。
「もし、まだ戦争がしたりないっていうんなら、こんどこそ、あなたのおっしゃる『モルトケ戦術』で儲けている人たちだけの間でやってもらいましょうよ。結局、自分たちの儲けのためにやる仕事なら、その人たちの間だけでやるがいいんだわ」
そう云ったとき、伸子はテーブルの下で、痛いほど靴のつまさきをふみつけられた。伸子はさとった。素子が合図をしたのだということを。気をつけて口をきけ、そう警告しているのだということを。
津山進治郎は、伸子のいうことをだまってきいていたが、やがて相手の話から一つも本質へ影響をうけないものの平静さで、
「あなたのような考えも、或は正しいかもしれんさ。しかし理想だ」
意外なようにおだやかな語調で云った。
「あるいは、現代の人類がまだそこまで進歩していないのかもしれない」
「そうは云えないと思います。だって、ソヴェトがあってよ。社会主義は、とにかく、もうはじめられているのよ。それだのに、世界じゅうは、一生懸命それを認めまいとしているのじゃないの、それはなぜなの?」
重い大柄な体のつくりのわりに額は低く、濃い生えぎわが一文字に眉へ迫っている津山進治郎の顔には、伸子の言葉でどういう表情の変化もあらわれなかった。彼は、おちついて、
「そりゃ、まだ社会主義ってものが一般法則になっていないからだ」
と云った。
「例外は、いつだってありますよ。しかし例外は一般法則ではないんです。そうでしょう? ロシアはああなっても、よそはよそで、まだ別の方法を信じているし、それで成りたってゆく条件をもっているんだ。だから、より普遍な法則の中で行われる生存競争には、その方法でもって勝たねばならんというわけですよ。ドイツはヨーロッパの中の『持たざる国』なんだから」
そして、伸子は津山進治郎から、ドイツ軍備の内容をきかされた。国際連盟は、ドイツの軍国主義を監視して国防軍十万ときめている。けれども、その十万人の陸軍の中に、出来るだけ旧ドイツ軍の将校たちを保有していて、この十万と、やっぱり旧軍人からなる警官隊十五万とに、連盟の規定を最大限にくぐりぬけた武装を与えている。そのほか自衛団、応急技術団、将校同盟団、いろいろの名目で旧い、軍隊組織を仮装させている。
「海軍だって、一万トン以上の軍艦はつくれないことになっているんだが、この頃ジュラルミンと云ってアルミニュームより軽くて丈夫な新発見の軽金属をつかうことをやりはじめているんです。ドイツじゃ商船だって、ちゃんと規格があるし、航空路だって無意味にこんにちだけ拡げたわけじゃない」
ことしのメーデーにベルリンの労働者が殺されたとき、すべての新聞はそれを警官隊のしわざと報じた。メーデーの労働者群と警官隊とはつきもののように思う習慣がつけられている国の人々は、ひどいことだが警官のしたことと、そこにまだ何かゆるされるべき余地があるように印象づけられている。だが、津山進治郎が話してきかせるとおりなら、メーデーに労働者を射ち殺したのはつまりドイツの軍隊だったのだ。タンクをもって、機関銃をもって、ベルリンの労働者を掃射したのは、ドイツの軍隊だったのだ。国内でもう彼らは人殺しをはじめている。国際連盟が、ドイツ国内の治安という口実で、十五万人もの武装警官隊を許可したとき、ことしのメーデーに起ったようなことは、見ないふりする用意をもったのだ。津山進治郎が現にドイツの国内におこっているそういうおそろしいことには全く無頓着で、ドイツ再軍備のぬけめなさとしてばかり称讚するのを、伸子は言葉に出して反撥するより一層の注意ぶかい感情をもってきいた。ドイツについてこういう考えかたをもつ人が、自分の国の日本へかえって別の考えようになるはずはない。その意味ではいまベルリンの小料理屋にいる津山進治郎と、労農党の代議士へ暗殺者をけしかけた人々との間に共通なものがある。そして、津山進治郎は、自分がそれを意志するわけでなくても日本における同じような考えかたの人々の間で、ドイツ式最新知識の伝授者となるだろう。医学博士という彼の科学の力を加えて。――この考えのなかには、伸子の気分をわるくさせるようなものがあった。伸子は津山進治郎に説得されず、津山進治郎も伸子の考えから影響されることなく、やがて三人はシャロッテンブルグ通りの横丁の小店から出た。
伸子と素子とはそこから、ニュールンベルグ広場まで地下鉄にのった。ベルリンの地下鉄は日本の山の手線のように、のんびりと一本の環状線で市の周辺をとりかこんでいるのではなかった。いくつかの比較的短い距離の循環線に区切られて、一つ一つの区切りが、鉄道の幹線駅に接続している。津山からああいう話をきいたあとでは、自分がのってゆられているベルリンの地下鉄のこういう区切りかたにも、伸子は軍事的な意図を感じた。底意をかくしながら几帳面な都会。ベルリンには意趣がふくまれている。
清潔で広々した地下鉄のプラット・フォームから、伸子たちは街上へ出た。もう
前へ
次へ
全175ページ中91ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング