ように云うのだった。新聞――伸子はうけて来た許りの様々の印象で瑞々《みずみず》しく輝いていた眼の中に微かな硬さを浮べた。
毎朝起きると、ドアの下から新聞がすべり込んでいるようになったとき、伸子は、自分によめない字でぎっしり詰まっている「プラウダ」の大きい紙面を、あっちへかえし、こっちへかえしして眺めた。そして、素子に、
「あなたが読んでいるとき、ところどころでいいから、わたしにも話してきかしてくれない?」
とたのんだ。そのとき「イズヴェスチヤ」の一面をよんでいた素子はすぐに返事をしなかった。
「ねえ、どう?」
「――ぶこちゃんはデイリー・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]よめばいいじゃないか」
「どうして?」
むしろおどろいたように伸子が云った。
「デイリー・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は、デイリー・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゃないの。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]・夕刊は、プラウダとちがうでしょう? そういう風にちがうんじゃない?」
主として外国人のために編輯されている英字新聞が、プラウダと同じ内容をもっているとは思えなかった。
丁度その年の秋のはじめ頃ソヴェト最大の石炭生産地であるドン・バス炭坑区の、殆ど全区域にわたって組織されていた反革命の国際的な組織が摘発された事件があった。帝政時代からの古い技師、共産党員であってトロツキストである技師、ドイツ人技師その他数百名のものが、数年来、ソヴェトの生産を乱す目的で、サボタージュと生産能率の低下、老朽した坑内の支柱をわざとそのままにしておいて災害を誘発させるというようなことをやって来た。それが発見された。
その記事は伸子も日本にいた間に新聞でよんだ。日本の新聞記事は、この事件でソヴェトの新社会が一つの重大な破綻に面し、またスターリンに対する反抗が公然化されたというような調子で書かれていた。そのドン・バス事件の公判が、伸子たちのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た前後からはじまっていた。一面を費し、ときには二面をつかって、反革命グループのスケッチと一緒に事件の詳細な経過が報告された。そういう記事は世界じゅうの文明国の新聞にのったとおり、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]発行のすべての新聞に掲載されていた。けれども、伸子は、この世界の視聴をあつめている事件の成りゆきばかりでなく、しんのしんにある意味というものをつかみたかった。こんなに執拗な階級的な憎悪。そしてそれらの人々としてはきわめて真剣に計画し実行されていた陰謀。それがその人々にとってどんなに真面目だったかということは、公判で、すべての被告が、理性的という以上に理論をもって陰謀を告白しているということでもわかった。そこには、ソヴェトの建設に傾注されている情熱と匹敵すると云っていいくらいの破壊と妨害への情熱があり、伸子はこれらの情熱の源泉としての憎悪、更にその憎悪の源泉としての利害のありどころについて知りたかった。フランスの貴族たち、王党の人たちは、自分たちが貴族であり王党でさえいられるならと、大革命のとき、外国から軍隊を招きいれて、あんなに祖国を蹂躙《じゅうりん》させた。トロツキストたちは、何の情熱で、外国の資本家たちの侵害の手さきとなるのだろう。ただ何でもかでも妨害したいためだろうか。政権への欲望というものはそういう狂気のような情熱をもたせるものなのだろうか。
伸子は、そのとき、もう一度、
「――じゃあ社説の要点だけでもいいから――駄目?」
ときいた。素子は、
「ぶこちゃんは、そんなに、こせこせしなくっていいんだよ」
と云った。
「ぶこちゃんみたいな人間は、今のまんまで結構なのさ。あるいたり、見たり聞いたりしてりゃいいのさ。――いずれはどうせ読めるようになるんじゃないか」
読めないなりに、伸子はデイリー・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のほかに、記事のかきかたのやさしいコムソモーリスカヤ・プラウダを外出のたびに買って来て見るのだった。
朝から夜まで素子と伸子とが、一緒に行動したのは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いて、ほんの五日か一週間ぐらいのことであった。素子は、二人で芝居を観に出かける夜の時間をのぞいて、毎日の規則正しい勉強の計画をこしらえた。マリア・グレゴーリエヴナのところでプーシュキンを読むほかに、素子は一人の女教師に来て貰って、発音と文法だけの勉強もはじめた。
言語学を専攻したというその女教師が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河のむこうからホテルへ教えに来るのは、芝居に行かない月曜日の、正餐後の時刻であった。
その晩、教師が来たとき、伸子は、その前のときのように、素子が勉強するデスクから一番遠い壁ぎわに角テーブルをひっぱって行って、そこで、例の「黄金の水」の書きとりをやっていた。緑色笠のスタンドの光を棗《なつめ》形の顔にうけて、素子は、伸子にわからない慣用語や語源の質問をした。それが終り、発音の練習がはじまった。これは、ひとりで伸子の耳にわかり、時々興味をひかれた。ベルリッツの萌黄《もえぎ》の本で一から百・千・万と数をおそわったとき、たとえば五はピャーチとかかれていて、素子はそれをその字のように発音した。だから伸子も、のばしてピャーチと云うものだと思っていた。しかし、それが十とくっついて、五十というときはあとの方に力点がついて、五はまるでペチというように響いた。
女教師と素子とは、機嫌よくときどき笑ったりしながら、いろいろの組合せで発音していたが、ふと、女教師が何かききとがめたような声の表情で、
「どうぞ――もう一度」
と求めた。素子が注意してくりかえしているのは「あった」という字であった。伸子は室のこっちの壁ぎわで、粗末な紙の帳面へにじむ紫インクで書き取っていた。「農民ボリスは、非常に苦悩した。何故なら、彼に富と幸福をもって来る筈だった黄金の水――石油は、彼を果しのないぺてんの中へひっぱり込んだから」ひっぱりこむ、という字がわからなくて辞書をみていた伸子は、デスクのところで、
「何故です?」
すこし怒りをふくんでききかえしている素子の声で、頭をあげた。
「わたしは、三度とも同じに発音したのに」
まだ「あった」が問題になっていた。伸子は、おやおやと思った。柔かいエリときつく舌を巻くエルの区別が出来ない伸子は、駒沢の家でロシア語の稽古をしていた時分、素子に散々笑われた。その素子が、やっぱり本場へくれば、案外エリを荷厄介にしている。女教師はもう一度、そのごくありふれた一つの字を素子に発音させた。こんども黙って不賛成をあらわし、頭をふった。彼女のその視線が丁度そのとき帳面から顔をあげたばかりの伸子の眼とあった。女教師は、その拍子の思いつきらしく、素子のよこにかけたままの遠いところから、
「あなた、やって御覧なさい。――ブィラ」
と、その室の端にいる伸子に向って云った。
伸子は、下手な方に自信があったので、格別の努力もしないで、その言葉を発音した。
「もう一遍」
伸子は素直にもう一遍くりかえした。
「御覧なさい。あなたのお友達は、発音出来ますよ。やって御覧なさい」
これは伸子にとって思いがけないことだった。恐縮してそちらを見ている伸子に、素子はちらりとながしめをくれながら苦笑した。そして、
「この次まで練習しておきましょう」
ブィラは保留となって、女教師はかえった。
女教師のうしろでドアがしまるとすぐ、伸子は壁にくっついている長椅子とテーブルの間から出て来た。
「――妙ね、あれ、どういうの?」
「なにがなんだかわかりゃしない」
「わたしのブィラが、ほんとによかったの?」
「いいんだろう」
素子は一二度マッチをすりそこなってタバコに火をつけた。そして、その吸いくちの長いロシアタバコに、パイプをもつときのように指をかけてふかしながら室の中央に向けてずらした椅子にかけて考えていたが、
「ぶこちゃん」
不機嫌な声のままで云った。
「なあに」
「わたしが何かやっている間は、この室から出ていてくれよ」
「――そうしたっていいけれど……」
その間自分はどこにいたらいいのだろう。伸子は当惑した。ぶらぶら雪の夜街を散歩するほど伸子はまだモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に馴れていなかった。考えてみれば、日本を出てから二ヵ月近く、二人は一つ室にばかり暮して来た。
「ね、いいことがあるわ、ここで、小さい室を二つかりましょうよ」
今いる四階の表側のひろい室代は六ルーブリ五十カペイキでそれに一割の税がついていた。
「われわれに、そんな贅沢なんか出来やしないよ。ここじゃ、一番小さい室だって五ルーブリじゃないか。そんなことしたら本代なんか出やしない」
「…………」
系統的に本を買わなければならないのは素子だった。二人の旅費のしめくくりをしているのも素子であった。
「ね、ぶこ、たのむ」
素子は、自分の云うことに我ままのあるのは分っているが、どうにもやりきれないのだという風に、そう云いながら涙ぐんだ。
「暫くのことなんだから秋山さんの室へでもどこへでもいっててくれ」
「――いいわ。もう心配しないで」
しかし、その晩ベッドに入ってから、伸子は長いこと目をあいていた。廊下の明りが、ドアの上のガラス越しに、灯の消えた自分たちの室の壁の高い一隅に映っている。スティーム・パイプのなかでコトコトコトと鳴る音がするばかりで、素子のベッドも、あっちの壁際で、ひっそりしている。
素子が、発音のことからあんなに神経をいためられた。そのことに、どこまで自分の責任があるのだろう。伸子はそこがよくわからなくて、眠りにくかった。伸子にわるいところがあるとすれば、それは、このモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の新しい生活で素子を押しのけようとすることではなくて、反対に、ここの生活に対する伸子の興味があんまりつよいためについ言葉のわかる素子にたよろうとする傾きがあることだ。実際モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の朝から夜までの生活は、狭くせつない一本の壜《びん》づめのようだった伸子の精神を、ひろいつよい外界へ押し出した。佃と結婚し、それに失敗し離婚してから。更に素子と暮してからの数年、伸子の二十歳以後の存在は一本の壜のようだった。せまい壜の口から、伸子のよく生きたいという希いで敏感になっている漏斗《じょうご》をこして、トロ、トロと濃い生活の感銘が蓄積されて来た。けれども、その生活の液汁は、伸子の胸をすっとさせ、眼の裡を涼しくさせるような醗酵力はもっていなくて、或るときは熱く、あるときはつめたく、そしてときには壜がはりさけそうに苦しく流れこんで来るにしても、伸子はかたときもそれに無心におしながされることが出来なかった。中流の環境としてみれば、伸子の周囲は平穏ではなかった。けれども、波瀾そのものが、伸子にいつでもそれと一致しない自分の存在についてつよく感じさせるたちのことばかりだった。その苦しさのぎりぎりのようなところで、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たのであった。
息苦しい存在の壜のようなものが熱量のたかいモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活でとけ去って、観ることのこんなにもうれしい自分、感じることがこんなにも愉《たの》しい自分、知ってゆくことの面白さで子供っぽくさえなっている自分がむき出しになっていることを発見したとき、伸子は自分とモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]とを、抱きしめた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でのすべての印象は、日本の生活でそうであったようにせまい漏斗で伸子の内面にばかりたまりこまなかった。伸子の主観でつつまれるにしては、事件にしろ見聞にしろその規模が壮大であり、複雑であり、それ自身としての真面目な必然と意義をもっていた。旧さと新しさが異様に交りあったモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1
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