フなかには名陶図譜にのっているものもあった。それにしても、一家総出で来るというのは――つや子まで連れて……
「あなた、これ、いったいどういうことなんだと思う?」
伸子は、ゆったりおさまっていたベッドの下が急に焙《あぶ》られて熱くなりだしたような眼で素子に相談しかけた。
「うちじゅうで来るなんて」
「わからないね」
赤くすきとおったパイプをかみながら素子は、
「こっちへ来る気なんじゃないかな」
病院へ来る道々でもさんざん考えたあげく発見している結論のように、おとなしい客観的な調子で言った。
「保君がああいうことだったし、君の病気というんで、おっかさんが矢も楯もたまらなくなっているんじゃないのかな」
伸子は、おびえた眼色になってこの間うけとった母の手紙の文句を思いあわせた。「母は可能なすべての方法をとる決心をしました。」まずその第一のあらわれとして、多計代にたのまれて訪ねて来たというのが軍人の藤原威夫だった。その訪問は伸子に苦しいだけだった。こんどはうちじゅうでやって来て。――そのようにうちじゅうでやって来るということに対して、伸子はどうするのが当然だと思われているのだろう。ああ、と伸子は両手で顔をおおいたいようだった。
「かえりをこっちからシベリアまわりにして、もし君がなおってないなら、そのとき一緒につれて帰ろうという心もちじゃないのかい?」
「ほんと? そりゃ、だめよ! そんなの絶対にだめだから※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
伸子はベッドにしがみつくような泣き顔になった。
「もっとも、七月にマルセーユ着っていうんだから、まだかなり間があるがね。まだ三月になったばかりなんだから五ヵ月もすりゃ、ぶこちゃんだって、まさかよくなってるだろうさ」
とりみだしたというに近いほど困惑している伸子を眺めて、
「ぶこちゃんにも、人の知らない苦労があるさね」
と、素子が、伸子のはげしい困惑の半ばは自分も負っているものの思いやりがある口調で言った。
「なにしろ、君の一家はかわってる。奇想天外を実際やりだすんだから恐縮しちまう。そこへ行くと、うちの親父なんか、全くのメシチャニン(町人)だからね。かえって始末がいいようなもんだ。せいぜい年に二度の別府行きぐらいしか考えもしない」
伸子は少しずつ最初の衝撃から分別をとりもどした。うちで、こまかい計画を立てきってしまわないうちに、それに応じた手配があちらこちらへされてしまわないうちに、伸子たちは伸子たちとして自主的なプランをはっきり知らしてやることが先決問題だと考えついた。すべてが二人にとって、特に伸子にとって受けみな、追いこまれた状態になってしまわないためには。――
伸子は一生懸命に起り得るあれやこれやの条件を考え、それについて素子に相談し、最後に一つの決定をした。それは伸子たちが、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から出て行って、フランスでうちのものと合流する、という方法だった。
「たしかに、それも一つの方法かもしれない」
素子もその計画に不賛成でなかった。
「わたし、そうするのが一番いいと思う。どうせわたしたちだって、いずれフランスやドイツは見ようと思っているんだし、ね、そうきめましょう、ね。――どうかそうきめて頂戴《ちょうだい》」
伸子は肝臓の手術をうけようと思っていなかった。なお相談しているうちに、伸子は、いつだったかフロムゴリド教授が云った言葉を思い出した。肝臓に炭酸泉がきくということを。フロムゴリド教授は、真白い診察着の膝に、うす赤く清潔に洗われた手をドイツ流な肱のはりかたでおいて、鼻眼鏡をきらめかせながら、身についている鼻声で、日本には豊富な温泉があることをきいていると言った。そのとき、炭酸泉の温浴は、肝臓のためのすばらしい治療だと言った。
「いいことを思いついた。素敵! 素敵!」
それを思い出して伸子は素子の両手をつかまえた。
「ね、ほら、ドイツのどこかにバーデン・バーデンて有名な温泉場があったじゃないの、よく小説なんかに出て来る。――それからカルルスバードっていうところも。わたし、どっちかへ行くことにする」
ヨーロッパの温泉地がどういう風俗のところであるか、伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しの習慣と、ろくな身なり一つ持たないでその雰囲気にまじれるものかどうかということについて、何ひとつ知らない伸子は、そういうことを知らないからこその単純さで自分の思いつきにすがりついた。手術をしないようにすること。そして、国外旅行の許可を得ること。その二つのために、カルルスバードかバーデン・バーデンへ治療に行くということは、ヨーロッパの人々の常識にとってよりどころのない理由ではないはずであった。午前中相談をかさねて、伸子はさしあたっては次のような電報を佐々のうちあてにうってもらうことを素子にたのんだ。「コンゲツスエマデニタイイン。マルセイユニテアウ」
十六
朝からの思いもうけない亢奮で疲れ、伸子は長い午睡をした。そして、目がさめたとき、伸子はテーブルの青い薬箱の下から、もう一度電報をとり出して、読みかえした。雪崩《なだれ》がおちかかるように感じられた驚きと不安がすぎ、伸子たちとしての処置の第一段を一応きめたのちの感情でしずかに電報を読んでいると、伸子の心には午前中感じるゆとりのなかったいくつものことについて思われて来た。
日本の中流の家庭で、一家五人のものが、どういう事情にせよ外国にいるその家族の一人に会いに出かけて来るということは、例のすくないことだった。あたりまえにはない佐々のうちのもののやりかただが、それをいきなり自分をさらいに来るためばかりのように警戒の心でだけうけとった自分を、伸子はわるかったと思いはじめた。伸子の病気が一つの大きいきっかけになっているにしろ、折角みんながそれだけの決心をして出かけるからには、父の泰造として二十年ぶりのロンドンも再び見る機会を期待しているだろうし、多計代にしろ、一度西洋を見たいという希望は随分昔からのものだった。視力が弱っていると言えば、多計代が今のうちに外国へ行ってみたく思うのは当然だとも思われた。保が死んで、多計代には夫だのほかの子供たちとはまったくちがった存在として神格化された「彼」というものができてしまっているらしかった。それは、一家のみんなにとって圧迫的でないわけはない。珍しいところへ、あれこれかかわっていられない時間や旅程でガタガタ旅行をし、様々のものを見たり聞いたりすることは、うちの空気をすっかり変えるためにいいかもしれない。ほこりの種であった保を失った多計代が、また別の話の種をもつようになり、それに興味をもてば、どんなにみんなほっとすることができるだろう。出発前に、云わば旅行のために結婚が促進されたらしい和一郎と小枝が、三月十四日といえばたったもう二週間しかないが、急に式をあげるようになったことも、伸子としてはやっぱりうちのものの身になって祝福すべきだと思った。
泰造や多計代の世間の親としての立場とすれば、こんど長男の和一郎の結婚式こそ、はじめて子供を結婚させると言える場合なのだった。長女の伸子は、あんな騒動をして、親たちがいいともわるいともいうひまを与えずがむしゃらに結婚してしまった。伸子のときには結婚式もなければ、披露らしいものもなかった。それらのことで、あれほど親としての社会的な体面を傷つけられ、自尊心をそこなわれた多計代は、きっと和一郎の婚礼は佐々家の大事なのだからと言ってさぞ盛大にやることだろうと伸子は想像した。数年前行われた小枝の姉の結婚式も、華美だった。実業家である小枝の父親も派手にすべきときには思いきって派手にする性格と手段をもつひとだった。さぞや賑やかなことだろう。伸子が外国へ出発するというだけでさえ人のゆきかいで廊下が鳴るようだった情景を思って、伸子は枕の上でほほえんだ。佐々のうちとしても保がいなくなってお嫁さんというものをもらう息子は和一郎一人になってしまったのだから、萌黄のユタンのかかった箪笥でも長持でもドシドシかつぎこめばいい。なかばユーモラスな感情で伸子は親たちの派手ごのみを肯定した。
和一郎と小枝が結婚するようになったということは、伸子としてとうとう、と思えることだった。和一郎はもう何年も従妹の小枝がすきで、伸子がソヴェトへ立って来る前の日の晩、伸子をわざわざ暗い応接間へひっぱりこんで、彼の気持を多計代につたえておいてほしいと言った。小枝は、華麗な少女で、樹のぼりが上手という風な自分の知らない活気と生の衝動にみたされている娘だった。多計代は、和一郎が従妹にあたる小枝のところへ幾日も泊っていたりすることについては、和一郎を信用して[#「和一郎を信用して」に傍点]黙認して来ているのに、伸子が彼の決心を伝えたとき、そんなことを言っていたかい? とそのひとことに明瞭な否認をこめて伸子を見た。そりゃ小枝ちゃんはわるい子じゃないだろうけれど、和一郎のおくさんになんて! あのひとは、夫を扶けて発展させるようなたちの女じゃあないよ。あんまり享楽的だよ。多計代は小枝についてはっきり自分の批評をもっていた。伸子は、明日に迫った出立のために気ぜわしくて、細かく話をしていられず、きいてもいられなかった。彼女は、短い時間と言葉のうちに多計代を説得しようとするように母の手を押え、でもねお母様、と言った。和一郎さんは決心をかえないことよ。そうはっきり言ったわ。だから、わたしに、お話しておいてくれとたのんだんでしょう。伸子は、そのとき、母の白くてにおいのいい顔を見ているうちにいつもながらわが息子尊しが不快になって、お母様もよくお考えになった方がいいわよと言ったのを今も忘れなかった。和一郎さんがあんなにずるずる飯倉の家へとまりこんだりしているのは放っておいて、あげくに、小枝ちゃんが和一郎を扶けて立身させる女でないなんていうの、虫がよすぎるわよ。小枝ちゃんは和一郎さんがよくよくきらいでないなら好きになるしかしようがないようになってるのに。伸子にそうつっこんで言われると多計代は、また例のお前がはじまった! と伸子の手から自分の手をひっこめた。お前は姉さんのくせに――お前はしたいようにやってみるのもいいだろうが、和一郎まで煽動しておくれでないよ。そう云う多計代の二つの眼に伸子の言葉をはねかえす光が閃いた。伸子は、じゃまあいいようになさるといい。とそこを立ちかけた。でも、わたしがあのひとにたのまれて、こういうことを言ったことだけは覚えていて下さる方がいいことよ。
あのいきさつ――多計代の小枝に対する不満は、どう扱ったのだろう。伸子は、ベッドのかけものの上へ出している両手の間で電報をひろげたり畳んだりしながら思いめぐらした。和一郎も小枝もがんばりとおしたと見える。
伸子がソヴェトへ立つ前に一家揃ってとった写真の中には、制服をきちんと着て、ぽってりとした顔にまったく表情の動きのない保の姿がうつっており、前の例に、おかっぱで太い脚をして、はにかみと強情と半ばした口もとで小さいつや子もうつっていた。そのつや子までついてはるばるやって来る。――
この思いたちを、できるだけ豊富な収穫の多いものにし、愉快なものにするために、伸子は自分ものり出そうという気になった。自分の積極性をその計画に綯い合わして行こうと思いはじめた。和一郎と小枝にとって、ましてつや子にとってそういう旅行をする機会がまたいつあろうとも思われなかった。若い連中への思いやりとはおのずからちがったニュアンスで、父と母とがその立場や境遇にふさわしくこの旅をたのしむことを想像すれば、それはやはり伸子にやさしい思いを抱かせるのだった。できるだけみんなを満足させ、その上でみんなはシベリアをとおってなり、アメリカをぬけてなり、都合のいいように帰ればいい。そして自分はまたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ戻ってくればそれでいいのだ。自分はうちのものみんなと、どうしても帰らないと気分がきまればきまるほ
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