買Fトの家事労働者組合では、契約時間外の労働には一時間についていくらと割増を主人が支払うことをきめている。そんなことなんかニューラは知らないのだろう。ルイバコフ夫婦はニューラがそういうことを知らないのを、ちっとも不便とはしていないということも伸子にわかる。
「ニューラ、あなた両親がいるの?」
「死にました、二人とも。――二一年にチフスで、二一年には、どっさりの人が死んだんです」
ジョン・リードのような外国人も、それで死んだし、この間素子がその著作集を買ったラリサ・レイスネル夫人のように類のすくない勇敢な上流出身のパルチザン指導者、政治部員だったひとたちも序文でみればその頃に死んだ。
「ニューラは一人ぼっちなの?」
「そうです」
最後の下着を吊り終ったニューラは、そのまま足元へ押して来た、からのバケツをとろうとしてかがんだ。が、急にそれをやめて、斜うしろについて来ている伸子をふりかえった。そして、いきなり、前おきなしに、
「わたしの本当の名はニューラじゃないんです」
と云った。
「エウドキアなんです――でも、ここのひとたちはわたしをニューラとしかよばないんです」
伸子は、思わずニューラの浅黒くてこめかみにこまかいふきでもののある若い顔を見つめた。その顔の上には、どう云いあらわしていいかニューラ自身にもはっきりわかっていない自身のめぐり合わせについての訴えがあった。伸子の眼に思いやりの色があらわれた。その伸子の眼をニューラも見つめた。夜の物干場のしめっぽくて石鹸の匂いがきつくこめて居る空気の中で、ほしものとほしものの間に向いあって、瞬間そうして立っていた二人は、やがて黙ったまま入口のドアの方へ歩き出した。ニューラが、黙ったまま鍵をあけ、外へ出て二人のうしろへ鍵をしめた。跫音を反響させながら、再び人気ない階段を下りて来た。
四階まで下りて来たとき、伸子がきいた。
「ニューラ、あなたの月給はいくらなの?」
「十三ルーブリです」
「…………」
もうじきで三階の踊場へ出る階段のところで伸子が、
「ニューラ、あなたがたの組合があるのを知っていて?」
ときいた。この間、ニキーツキイ門へ出る通りを歩いていたら歩道に面した空店の中で多勢の女が、大部分立ったまま何か会議していた。ドアのあいた店内へは通りすがりの誰でも入れた。伸子も入って立って聞いていたら、それは、家事労働婦人の組合の会議だった。伸子はその集会をみたりしていて独特にテムポのゆるい、重い、しかし熱心な空気を思いおこしてニューラにきいたのだった。
「知っています」
「じゃ、はいりなさいよ、そうすれば、友達が出来るわ。そこの書類にはエウドキアって本当の名を書いてくれるわ」
「わたしは書類をかきこむために主人《ハジヤイン》にわたしてあるんです」
「いつ?」
「もう三月ばかり前に」
三月まえと云えば、伸子たちがまだアストージェンカへ引越して来なかった時分のことだ。
「書いてくれるまで度々、たのみなさい、ね」
もうそこは主人のドアの前だったので、ニューラは、気がねしたような声で、
「ええ」
と返事した。
ベルを鳴らすと、素子が出て来て戸をあけた。ルイバコフ夫婦はまだ帰って来ていなかった。
「いやに手間がかかったじゃないか、どうかしたのかと思っちゃった」
「そうだった? 御免なさい。わたしたちは急がなかったのよ、そうでしょう? ニューラ」
ニューラは台所の入口に立ってショールをぬきながら無言でにこりとしたぎりだった。
五
あくる朝、ニューラはいつもどおり茶道具を運んで来た。そして丁寧に腰をかがめるような形で急須や水色ヤカンを一つ一つテーブルの上へおくと、関節ののびすぎた両方の腕を、いかにも絶望的にスカートの上へおとして、
「オイ! わたし、不仕合わせなことになっちゃったんです」
呻くように、
「オイ! オイ!」
と云いながら胸を反らし、両腕で、つぎのあたった茶色のスカートをうつようにした。その動作は、いつか赤い広場のはずれで素子が物売女の顔をぶったとき、仰山な泣き真似をしながら物売女がオイ! オイ! と大声をあげたそのときの身ぶりとそっくりだった。
「どうしたのさ、ニューラ」
ニューラの大|袈裟《げさ》な様子をいやがるように素子がきいた。
「盗まれちまったんです! オイ!」
「なにを盗まれたのさ」
「洗濯ものを。――ゆうべ乾した洗濯ものがみんな無いんです。盗まれたんです」
「ゆうべ乾したって……」
素子が、おどろいた顔を伸子にむけた。
「ぶこちゃんが一緒に行ってやった分のことかい?」
「ニューラ、落付きなさい。わたしと一緒にゆうべ乾したものが、無いの?」
「その洗濯ものが、けさまでに、一枚もなくなったんです――わたしに何の罪があるでしょう。こんなことがなくたって、わたしはちっとも仕合わせじゃあないのに……何て呪われているんだろう。何のために、わたしに大きな敷布がいるでしょう」
ニューラの頬を涙が流れた。
「奥さんは、わたしが盗んだにちがいないと思っているんです。もう電話かけました。警察犬をよんで、わたしの体じゅうを嗅がせるんです。オイ!」
最大の恐怖が、警察犬にあらわされてでもいるかのようにニューラはますます涙を流した。
「ニューラ、あなた、物干場を出るとき鍵をかけたことはたしかに思い出せるでしょう!」
「わたしが鍵をかけたって何になるでしょう。あすこに入る鍵はこの建物じゅうの住居にあるんです……警察犬が来たら、わたし、この建物じゅうの人たちを嗅がせてやるんだから――オイ!」
ニューラは涙をふきもせず濡れたほっぺたをしたまま室を出て行った。
「どうしたっていうんだろう」
ゆうべ見た夜ふけの物干場の光景や人気なかった階段の様子を思い浮べながら伸子が気味わるいという顔をして素子をかえりみた。どういうわけで、ニューラの干したものばかり、盗まれたのだろう。濡れた洗濯ものからはあのときまだ床にしかれた砂の上へ水がたれていたのに。ニューラの荷物と云えば、台所の壁についている折り畳み寝台の下に置かれている白樺の箱の一つだった。
「――こんなことがあるから、つまらないおせっかいなんかしないがいいのさ」
不機嫌に素子が云った。迷惑をうけるばかりでなく、そんな風ならゆうべだってどこに危険がかくされていたのかもしれないのに。そういう意味から素子は不機嫌になって伸子の軽率をとがめた。
「なにか特別なものがあったの?」
「いいえ。シーツが二枚に女の下着やタオルよ。――変ねえ、よそのだってあんなに干してあったのに……」
災難がルイバコフ一軒のことだとは伸子に信じられなかった。
「ニューラは知らなくっても、きっとよそでもやられているんでしょう、いやねえ」
素子は大学へ出かける仕度をしながら、こういうときの彼女の云いかたで、
「わたしは知らないよ」
わざとちょいと顎をつき出すような表情で云った。
「まあ犬にでも何でも嗅がせることさ」
そして、出て行った。
伸子は、一人になってテーブルの上を片づけ、自分の場所におちついた。書きかけた半ぺらの原稿紙はもう三十枚ばかりたまって、ニッケルの紙ばさみにはさまれている。きのう書いた部分をよみ直したりしているうちに、朝おきぬけからの泥棒のさわぎを忘れた。藍色のケイがある原稿紙に、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]出来の粗悪な紫インクで伸子はしばらく続きを書いて行った。伸子はこの間の復活祭の夜のことを書きかけていた。
宗教は阿片である。と、ホテル大モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の向いの反宗教出版所の飾窓にプラカートが飾られている。しかし一九二八年の、ソヴェトで復活祭《パスハ》を行った教会はどっさりあった。パスハの前日、往来の物売りは、ほんの少しだったが色つけ玉子を売っていたし、経木に色をつけた祭壇用の造花を売っていた。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤでは、金の円屋根の下に礼拝堂の壁が幾百本かの大蝋燭でいっせいに煌きわたり、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]第一オペラ舞踊劇場の歌手たちが、聖歌合唱に来た。伸子と素子もフラム・フリスタ・スパシーチェリヤへつめかけた群集の中にまじった。宗教は阿片である、という言葉なんか知られていないところのような大群集であった。その群集には男よりも女の数が多く目立った。そして、混雑ぶりに一種の特徴があるのが伸子の興味をひいた。白髪で金ぴかの服装の僧正が、香炉の煙のなかでとり行う復活祭の儀式は、復活祭の蝋燭を手にもって祈祷の区切りごとに胸に十字を切っている年とった連中にとってこそ信仰の行事であろうが、多数の若い男女にとっては、ただ伝統的な観ものの一つとしてうけとられるらしかった。そういう感情のくいちがいからあちこちで、群集の間に口喧嘩がおこっていた。それは、人間の歴史のつぎめにあるエピソードであり、伸子はそれが書いて見たかった。
相変らず時々ひどい音をたてて電車がとおる。そのたびに机の上のコップにさされているミモザのこまかい黄色の花がふるえた。伸子は自分の心の中で何かと格闘しているような緊張を感じながら書いて行った。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の印象記を書こうとしはじめてから、伸子はこれまで経験されなかったその緊張感を自覚した。その感じは、書き進んでも消えなかった。ソヴェトの社会現象はその印象を書きはじめてみると、ひとしおその複雑さと嵩のたかさとで伸子を圧倒しそうになるのだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の印象記を、伸子は、自分が感じとったままの感銘と感覚であらわして行きたいと思った。伸子はいつも眼から、何かの出来事と情景から、色彩と動きと音と心情をもってモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を感じとって来た。そのテムポ、その気ぜわしさ、一つ一つに深い理由のある感情の火花や風景。それらをみたように、あったように表現しようとすると伸子の文体はひとりでに立体的になり、印象的になり、テムポのはやい飛躍が生じた。そして断片的でもあった。
エイゼンシュタインの映画やメイエルホリドの舞台と、どこか共通したようなところのある伸子の文体は、伸子自身にとって馴れないものだった。けれども、生活の刺戟は、ひとりでに伸子にそういう様式を与え、伸子は、そうしかかけなくて書いているのだった。
伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に生きている現実のいきさつを辿れば、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は伸子が印象記にかいているように伸子のそとに見えている現象だけのものではなかった。伸子は眼から自分の中へ様々のものをうけ入れ、自分というものをそれによって発掘してもいた。たとえばゴーリキイ展のときのように。しかし、そのようにして一人の女の内面ふかく作用しながら生かしているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]として印象記を描き出す力は、伸子にまだなかった。伸子には影響をうけつつある自分がまだはっきり自分につかめていなかった。伸子はおのずからの選択で主題を限ってその印象記を書いているのだった。
伸子が、復活祭《パスハ》の夜群集の中で目撃した婆さんと若い娘の口争いをかき終ったときだった。ドアをたたくものがあった。
「はいっていいですか」
ニューラのしめっぽい声がした。伸子はけさの泥棒さわぎを思い出した。警察犬が来たのかと思った。そういう職業人に、その人々によめない日本字でうずめられた原稿を見られたくなかった。伸子はいそいで椅子から立ち、紙ばさみのなかへ原稿をしまいながら、
「お入りなさい」
改まった声をだした。
入って来たのはニューラだけだった。泣いて唇の腫《は》れあがった顔つきではいって来た。
「どうしたの? ニューラ」
また椅子に腰をおろした伸子のわきに、だまって自分の体をくっつけるようにして佇んだ。ニューラの着ているものからは、かすかに台所の匂いがした。警察犬が、いま来るかいま来るかと思い
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