B
「御存じのとおり、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では外国人に個人の室をかさないことになっているから、わたしは、彼をどう落付け[#「落付け」に傍点]ていいのかわかりません」
「――さてね――」
そのことは、ついノヴァミルスキーの念頭にもなかった風だった。
「全然知っていないひとをつれてゆくのなら、ヨシミさんに、電話しなければよくないでしょう」
「その通りです!」
素子は、案外あっさり蒲原順二がホテル・パッサージへ来ることを承知した。
「よござんすよ、そんなわけなら、長いことでもないんだし、この室へもう一つの補助ベッドを入れさせましょう。朝のお茶はどうせ大したことないんだから一緒にして、正餐《アベード》は別。いいでしょう? あなたは補助ベッドの代を自分で払って下さい。二ルーブリ、ちょっとだから」
濃くてこわい日本人の髪の毛を、あっさり左わけにして、いくらか反っ歯の、頬骨の高い蒲原順二は、こうして伸子たちの部屋の一隅で臥起きすることとなったのだった。
日本の画家がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たのは蒲原がはじめてであった。プロレタリア美術家同盟は、労働者クラブに飾るため、日本のメーデーの絵を彼にもとめた。百号で、画布とアトリエが提供された。
蒲原は、朝の茶がすむと伸子たちの室を出かけて、毎日光線の許すぎりぎりまで、共同アトリエで制作した。大体出来あがって、その下見《したみ》が行われたとき、伸子もついて行った。プロレタリア美術家同盟の書記局の仕事をしているミチェンコという大男の画家は、板壁にたてかけた蒲原の作品をじっと見ていて、
「あなたには、相当の技術がある」
暫くとぎれて、
「これだけ描けるならもっと、日本の労働者らしい顔や体つきの特徴がつかめるはずだと思うがな。東洋人一般の顔でなく――」
伸子は、そこだったのか、と蒲原の画面に対して感じていた、ぼんやりした不満の正体を理解した。蒲原の描いた日本のメーデーの絵は、赤旗やスクラムを組んだ男女労働者や、ひっこぬき検束をしようとして一人の労働者のまわりにおそいかかっている黒服、サーベル、あご紐をかけて巻ゲートルをした警官隊と、それに抵抗してもみ合う行進者一群を描いて、日本のメーデーの性格を示そうとしていた。その状況は説明されているけれども、全体の画面は弱くてリアリスティックな熱っぽい雰囲気や量感に欠けていた。
「きいてごらんなさい、タワーリシチ」
ミチェンコは、すこしおどけ[#「おどけ」に傍点]て、大きい掌《て》のひらを片方の耳のうしろにあてがって眼玉を大きくし、画面に向って耳をすます様子をした。
「きこえない、わたしにはきこえない。この画からはメーデーの跫音がきこえて来ない。彼らは眉毛で憤っている」
左手の指さきで、自分の眉毛をつき上げた。
「彼らは口でおこっている」
画面の労働者が叫んで開いている口つきをまねた。
「しかし、声がない。どよめきがない――真実の感情が不足しています」
伸子が自身の同感をふくめてとりつぐそれらの批評を、蒲原順二は、こだわりなくうけいれた。
「やっぱり、そうかなあ。こわいもんだなあ」
蒲原はこういう制作に必要な、日本のメーデーのスケッチやクロッキーをモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へはもって来ていなかったのだった。そういう条件をありのままに告げて、新しく協議した結果、蒲原は、主題をかえて、二月の東京市電のストライキのときに、男女従業員が催涙弾で襲撃された事件を描くことになった。
プロレタリア美術家同盟の事務所から伸子とつれ立ってかえりながら、蒲原順二は、
「こっちの画家って、率直ですねえ」
自分の制作がパスしなかったことについて、彼は格別しょげてもいず、意外に感じてもいない風だった。
「こっちの画家は、大衆の目そのもので、絵を見ようとしているらしいですね。よその国の画家たちみたいに、メチエなんかに、あんまりひっかかっていないんですね」
美術学校の教育をうけた日本の青年画家として、ドイツの左翼美術家の仕事を見た上でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た蒲原は、ソヴェト画家のめざそうとしている新しいリアリズムの方向について、自分の制作がうけた批評そのものから、何かを理解しようとしているようだった。
「こんどの仕事では、僕、いくらケチをつけられても、いやな気がしない。ソヴェトでは絵画というものを、どう考えているか、そのうってつけの実験ですからね、僕にとっちゃ千載一遇です」
そして朝のおそい伸子たちと一緒に茶が終るのを待ちかねて、プロレタリア美術家同盟の共同アトリエへ出かけて行った。
これは、みんなメーデー前のことだった。一九三〇年のメーデーには、いろいろな労働組合のクラブが、五ヵ年計画第一年の成功の記念として、それぞれに、クラブの壁を飾る絵をおくられた。蒲原順二は、その一つに加わる制作として、日本のメーデーを、もとめられたわけなのだった。
コムソモーリスカヤ・プラウダでその記事をよみ、化学労働者クラブがもらった職場の絵の下で、そこのウダールニクたちが、うれしそうに笑って写真にとられているのを見ると、蒲原順二にも、自分の制作のパスしなかった残念さが実感されるらしかった。
彼は、じっとその新聞写真に出ている化学工場の内部を描いた画を見ていたが、何か考えが湧いたらしく、
「佐々さん」
自分のベッドのところから伸子をよんだ。
「なあに」
伸子は、茶テーブルの上で、ロシア語文法を勉強しているところだった。
「僕のこんどの絵ですがね、大体下絵だけは出来たんです。こんどのやつは、この前のように、仕上げてから批評してもらうのではなく、今のところでいっぺんあのひとに見て貰うのは、どうでしょう」
「その方がいいとお思いになれば、わたし、またついて行くことはかまわなくてよ」
「すみませんが、じゃ、あしたでも時間をくりあわせてもらえませんか。実は、僕として折角モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へのこしてゆく作品なんだから、出来るだけ変色なんかしない絵の具がつかいたいんです。前の一枚がふいになってしまったから画布はもらえたんですが、またしくじると、絵の具の方がちょっと痛いんです」
伸子も素子も、蒲原自身も笑い出した。
「なるほどね、われわれの知らない苦労があるわけなんだな」
「ひとつお願いします」
木炭で下絵の出来ているカンヴァスをもって、伸子と蒲原順二は、ふたたびプロレタリア美術家同盟の書記局を訪ねた。
「おお、タワーリシチ・カンバーラ」
ミチェンコが、立って来た。蒲原の下げているカンヴァスを見ると、
「お見せなさい、おみせなさい」
せっかちに、待ちどおしそうにせきたてた。カンヴァスが、板壁に立てかけられた。伸子がなぜ下絵で見せに来たかという理由を説明した。絵の具の心配について蒲原が伸子たちにうちあけたことにはふれないで。
「わるくないじゃないですか」
彼自身一人の画家として、外国の画家の仕事を、下絵から見るということには、おもしろさがあるらしかった。
「まじめに努力してある」
蒲原にタバコをとらせ、自分も咥《くわ》え、火をつけて、煙をふかく吸いこみながら、なおカンヴァスから目をはなさずにいたミチェンコは、突然、
「タワーリシチ・カンバーラ」
蒲原の名をよんだ。そして、自分でもその発見に目をみはる声の調子で、
「どうして、君は、人物の肉体をすっかり描かなかったんですか」
例の手まねで、
「足もとから、体をすっかり頭まで」
自分の体の線をたどって足から頭まで人さし指を動かした。
蒲原の画面では、催涙弾をうけた瞬間の市電従業員の群が左側に大きく迫った八分身で描かれ、早くも倒れた一人の婦人車掌の体をこして、むこうに、警官隊の例が見えている。
「全体の物語をお描きなさい。労働者たちが、こういう野蛮な襲撃をうけたとき、彼らは、いつだって全身でたたかわなければならないんです。ごらんなさい、こんな風に」
蒲原の画面にあるとおり、ガス弾をうけてはっと両手で顔を掩《おお》い、肩をねじった労働者の、腰、脚、足元が、その瞬間どんな運動をおこすか、画家ミチェンコは、自分の体でやって見せた。
「ごらんなさい。体全体がこういう風に動くんです。体全体で抵抗するんです。肉体でたたかうんです」
大きい掌で、蒲原の肩をたたいた。
「あなたには技術があります。やってごらんなさい。僕は君の成功を疑いません」
こんどの批評は、蒲原順二を、長いこと彼の下絵のよせかけてある板壁の前から身動きさせないものをもっていた。ミチェンコの批評は、一枚の下絵について話された技術批評をはみ出して、労働者は彼らを搾取する権力のもとではどのように生きなければならないか。その真実についての物語の一節なのだった。
伸子はミチェンコの批評の実感にうたれた。蒲原順二はポケットに手をさしこみ、両脚をひらいて立ち、浅ぐろい日本青年の顔をたれて、上目に自分の仕事に見入っている。彼のその様子には、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからきょうはじめて、正直に、参った、というところが見えた。美術上の問題の底が、ミチェンコが直截に描き出したような労働者生活の現実に根ざしている。そのことを、蒲原順二はみとめずにいられなかったのだ。そして、この理解は、彼がいくらか批判をこめた語調で、こっちの画家は大衆の目そのもので、絵を見ようとしているらしいですねと、その素人《しろうと》っぽい素朴なリアリズムの態度にふれた、彼の言葉の一部にある浅さをも、蒲原に自覚させているらしかった。
画家らしさからというよりも、青年らしさから、ミチェンコの批評をまともにうけた蒲原順二を、伸子は親愛の感じをもって眺めた。
十三
プロレタリア美術家同盟は、蒲原順二の二度目のやりなおしを支持して、制作が完成したときに支払う予定の金の一部を、早く彼にわたしてくれた。
その金で、蒲原は、同盟の事務所で知りあった若い画家の親戚という家の一室をかり、パッサージ・ホテルをひきはらった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸のあっち側で、ごろた石じき道の上に馬糞や藁くずの散っている倉庫通りから入った、裏町の一隅だった。
ペンキのはげた木造の門が傾いて立っている。乱雑にがらんとした内庭をかこんで、いくつか建てられている古びた木造家屋の中には、幾組もの家族がこみあってすんでいるらしく、内庭に面してほしもののある出入口の階段に、子供たちがかたまって遊んでいた。
蒲原のかりた室は、ひどく脂じみていて床の一部は腐っていた。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]には、むずかしい規則があるんだそうで、僕はここで借室人ではないんです、泊り客というわけなんです」
「なるほどね。お客をとめるにしちゃちょっとひどすぎるけれど、絵をかく人なんだから、ホテルになんぞいるよりずっといいですよ。ホテルじゃ画なんか描けっこないさ。雰囲気がないんだもの」
「そうなんです」
蒲原は、伸子たちのところを出た動機が、素子にも自然に理解されていることを満足そうにうなずいた。
「おまけに、僕自身、少々、まとまりよく出来すぎているんです。――芸術家として、マイナスだと思うけれど、生れつきかなあ」
「ふ、ふ」
素子が好意とからかいとを交ぜて若者を見る、年かさの女の眼で蒲原を見た。
「それできみが芸術家きどりだったりしたら、一日でわれわれのところはおはらいばこさね」
蒲原は、意識してか意識しないでか、伸子と素子と、どちらに対しても、中性的な存在として暮したのだった。
補助ベッドがとりはらわれて、伸子たちの部屋は久しぶりにひろびろした。何もなくなった床のそのところに窓からの朝日がさしこんでいる。気がねなしに、ぬいだり着たりすることは伸子にとって新鮮なくつろぎだった。
そういうある朝、二人きりの、のんきな時間で伸子と素子とが茶テーブルに向いあ
前へ
次へ
全175ページ中158ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング