「る。伸子はまだいくらか総毛立った頬の色をして、苦しそうに乾いた唇をなめた。
「――お茶でも飲もう」
素子が立って行って、茶を云いつけ、それを注いで、伸子の手にもたせた。コップ半分ぐらいまでお茶をのんだとき、
「ああ、そうだ」
素子が、入口の外套かけにかけた外套のポケットから、往きに買った砂糖菓子を出して来た。二杯めの茶をのみはじめたころ、やっと伸子が、変にしわがれたような低い声で、悲しそうに、
「ああいうことは、もう絶対にいや」
と云った。
「…………」
「手を出すなんて――駄目よ! どんな理由があるにしろ……まして悪態をついたぐらいのことで――」
素子は、タバコの灰を茶の受皿のふちへおとしながら、しばらくだまっていたが、
「だって、人馬鹿にしているじゃないか。なんだい! あのキタヤンキって云いようは!」
物売がやったように、上と下とのキの音に、いかにも歯をむき出した響きをもたせて素子はくりかえした。
「だから、口で云えばいいのよ」
「口なんかで間に合うかい!」
それは、素子独特の率直な可笑しみだった。伸子は思わず苦笑した。
「だって、ぶつなんて……どうして?」
支那の女という悪口が、それほど素子を逆上させる、その癇のきつさが、伸子にはのみこめないのだった。
「そりゃ、ぶこちゃんは品のいい人間だろうさ。淑女だろうさ。わたしはちがうよ――わたしは、日本人なんだ……」
「だからさ、なお、おこるわけはないじゃないの。ああいうひとたちには、区別がわかりゃしないんだもの。ここにいるのは、昔っから支那の人の方が多いんだもの」
街で伸子たちが見かけるのも中国の男女で、日本人は、まして日本の女は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゅうにたった十人もいはしない。その日本婦人も、大使館関係の人々は伸子たちよりはもとより、一般人よりずっと立派な服装をしていて、外見からはっきり自分たちを貴婦人として示そうとしていた。伸子たちにさえ、日本人と中国人の見わけはつかなかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の極東大学には、この数年間日本から相当の数の日本人が革命家としての教育をうけるために来ているはずであった。その大学附近の並木路を伸子たちが歩いていたとき、ふと、あっちからやって来る二人づれの男の感じが何となし日本人くさいのに気づいた。
「あれ、日本のひとじゃないのかしら」
素子もそれとなく注目して、双方から次第に近づき、ごく間近のところを互に反対の方向へすれちがった。伸子も素子も、その二人の人たちが大ロシア人でないことをたしかめただけだった。中国人か朝鮮のひとか、蒙古の若い男たちか、その区別さえもはっきりしなかった。もし日本人であったとすれば、その人たちの方からまぎれない日本女である伸子たちを見つけて、話すのをやめ、漠然と「東洋の顔」になってすれちがって行ったのにちがいなかった。
もう一度、トゥウェルスカヤの通りでも、それに似たことがあった。そのときも、さきは二人づれだった。愉快そうに喋りながら来る、その口もとが、遠目に、いかにも日本語が話されている感じだった。が、とある食料品店の前の人ごみで、ほとんど肩をくっつけるようにしてすれちがったとき、その人たちが、日本人だと云い切る特徴を伸子は発見しなかった。伸子は、それらのことを思い出した。
「それだもの、ああいう女がまちがえたって、云わば無理もないわよ」
「そりゃ、ただ区別がわからないだけなら仕様がないさ。日本人だって、西洋人の国籍が見わけられるものはろくにいやしないんだから。……バカにしやがるから、癪《しゃく》にさわるのさ。いつだってきまっているじゃないか、ホージャに、キタヤンキ。――日本人扱いをした奴が一人だっているかい」
「…………」
キタヤンカ――(支那女)伸子は、その言葉をしずかにかみしめているうちに、この間、ホテル・メトロポリタンの薄暗い、がらんとした妙な室で会ったリン博士を思い出した。あのひとこそ、正銘の中国の女、キタヤンカであった。けれども、あのものごしの沈厚な、まなざしの美しいひとが、もの売をねぎっているわきからキタヤンカと、素子がからかわれたようなからかわれかたをしたことがあるだろうか。伸子からみると公平に云って素子には、何となしひとにからかいたい気持をおこさせるところがあるように思えた。
素子は、タバコの灰をおとすときだけ灰皿のおいてある机のところへよるだけで、いかにも不愉快そうに室の内を歩きまわっている。段々おちついた伸子の心に、いきなりぶったあげく逃げ出した卑怯な二人の女のかっこうが、苦々しくまた滑稽に見えて来た。
「――あなたって、不思議ねえ」
柔和になった伸子の声に、素子の視線がやわらいだ。
「どうしてさ」
「だって――あなたは、さばけたところがあるのに――。ある意味じゃ、わたしよりずっとさばけているのに、変ねえ……キタヤンカだけには、そんなにむらむらするなんて……」
「…………」
伸子を見かえした素子の瞳のなかにはふたたび緊張があらわれた。
伸子が五つ六つの頃、よく支那人のひとさらいの話でおどかされたことがあった。けれども、現実に幼い伸子の見馴れた支那人は、動坂のうちへ反物を売りに来る弁髪のながい太った支那の商人だった。その太った男は、いつも俥にのって来た。そして、日本のひとのように膝かけはかけないで、黒い布でこしらえた沓《くつ》をはいた両足をひろげた間に、大きい反物包みをはさんでいた。弁髪の頭の上に、赤い実のような円い飾りのついた黒い帽子をかぶっていて、俥にのったり降りたりするとき、ながい弁髪は、ちょいと、碧《あお》い緞子《どんす》の長上着の胸のところへたくしこまれた。この反物売の支那人は、
「ジョーチャン、こんにちは」
と、いつも伸子に笑って挨拶した。玄関の畳の上へあがって、いろいろの布地をひろげた。父が外国へ行っていて経済のつまっている若い母は、美しい支那の織物を手にとって眺めては、あきらめて下へおくのを根気づよく待って、
「オクサン、これやすい、ね。上等のきれ」
などと、たまには、母も羽織裏の緞子などを買ったらしかった。この支那人の躯と、反物包みと、伸子の手のひらにのせてくれた落花生の小さな支那菓子とからは、つよく支那くさいにおいがした。子供の伸子が、支那くささをはっきりかぎわけたのは、小さい伸子の生活の一方に、はっきりと西洋の匂いというものがあったからだった。たまに、イギリスの父から厚いボール箱や木箱が送られて来ることがあった。そういう小包をうけとり、それを開くことは、母の多計代や小さかった三人の子供たちばかりか一家中の大騒動だった。伸子は、そうして開かれる小包が、うっとりするように、西洋のいいにおいにみちていることを発見していた。包装紙の上からかいでも、かすかに匂うそのにおいは、いよいよ包が開かれ、なかみの箱が現れると一層はっきりして来て、さて、箱のふたがあいていっぱいのつめものが、はじけるように溢れ出したとき、西洋のにおいは最も強烈に伸子の鼻ににおった。西洋のにおいは、西洋菓子のにおいそっくりだった。めったにたべることのない、風月の木箱にはいった、きれいな、銀の粒々で飾られた西洋菓子のにおいと同じように、軽くて、甘くて、ツンとしたところのある匂いがした。
こわいような懐しいような支那についての伸子の感じは、その後、さまざまの内容を加えた。昔の支那の詩や「絹の道」の物語、絵画・陶器などの豊富な立派さが伸子の生活にいくらかずつ入って来るにつれ、伸子は、昔の支那、そして現代の中国というものに不断の関心をひかれて来ていた。そこには、日本で想像されないような大規模な東洋の豊饒さと荒涼さ、人間生活の人為的なゆたかさと赤裸々の窮乏とがむき出されているように思えているのだった。
日本にいたとき、わざわざ九段下の支那ものを扱っている店へ行って、支那やきの六角火鉢と碧色の毛氈《もうせん》を買ったのは素子だった。そんな趣味をもっている素子が、支那女と云われると、分別を失って逆上し、くやしがる。
日本人のきもちには日清戦争以来、中国人に近づいて暮しながらそれをばかにしている気もちがある。日本に来ている留学生に対しても、商人にたいしても。そのばかにした心持からの中国人の呼びかたがいくとおりも、日本にある。素子が、キタヤンカと云われた瞬間、ホージャと呼ばれた瞬間、それは稲妻のような迅さで中国人に対する侮蔑のよびかたとなって、素子の顔にしぶきかかるのではないだろうか。
「そう思わない?――心理的だと思わない?」
素子は、睨みつける目で、そういう伸子を見すえていたが、ぷいとして、
「君はコスモポリタンかもしれないさ。わたしは日本人だからね。日本人の感じかたしか出来ないよ」
タバコの箱のふたの上で、一本とり出したタバコをぽんぽんとはずませていたが、
「ふん」
鼻息だけでそう云って、素子は棗形をした顔の顎を伸子に向って、しゃくうようにした。
「――コスモポリタンがなんだい! コスモポリタンなら、えらいとでもいうのかい!」
火をつけないタバコを指の間にはさんだまま室の真中につったって自分をにらんでいる素子から伸子は目をそらした。伸子は、あらためて自分を日本人だと意識するまでもないほど、ありのままの心に、ありのままに万事を感じとって生活しているだけだった。日本の女に生れた伸子に、日本の心のほかの心がありようはなかったけれども、伸子には、素子のように、傷けられやすい日本人意識というものがそれほどつよくなかった。或は気に入るものは何につけ、それを日本にあるものとひきつけて感情を動かされてゆく癖がないだけだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついた翌日、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]芸術座を見物したとき、瀬川雅夫は、幾たびカチャーロフやモスクビンが歌舞伎の名優そっくりだ、と云って賞《ほ》めただろう。伸子にとってそれは全く不可解だった。カチャーロフと羽左衛門とがどこかで同じだとしたら、わざわざモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て芸術座を観る何のねうちがあるだろう。
秋山宇一が、コーカサスの美女は、日本美人そっくりだ、とほめたとき、伸子がその言葉から受けた感じは、暗く、苦しかった。エスペラントで講演するひとでさえも、女というものについては、ひっくるめて顔だちから云い出すような感覚をもっているという事実は、それにつれて、伸子に苦しく佃を思い浮ばせもすることだった。駒沢の奥の家で一時しげしげつき合いそうになった竹村の感情も思い出させた。竹村も佃も、それが男の云い分であるかのように、編みものをしているような女と生活するのは愉しい、と云った。編みものをしたりするより、もっと生きているらしく生きたがって、そのために心も身も休まらずにいる伸子にむかって。――素子にしろ日本の習俗がそういう習俗でなかったら、もっと自然に、素子としての女らしさを生かせたのに――。
「自分で、日本のしきたりに入りきれずにいるくせに、日本人病なんて――。おかしい」
と伸子は云った。
「矛盾してる」
「――ともかく、さきへ手をあげたのは、わたしがよくなかった。それはみとめますよ」
思いがけない素直さで素子が云い出した。
「実は、幾重にも腹が立つのさ」
「なにに?」
「先ず自分に……」
そう云って、素子は、うっすり顔を赧らめた。
「それから、ぶこに――」
「…………」
「ぶこが、どんなに軽蔑を感じているかと思ってさ――腹んなかに軽蔑をかくしているくせに、なにを優等生|面《づら》して! と思ったのさ」
「軽蔑しやしないけれど……でも、あんなこと……」
自分の前に来て立った素子を見あげて伸子はすこしほほえみながら涙をうかべた。
「ここのひとたちの前から、まさか、かけて逃げ出さなけりゃならないような暮しかたをしようとしてやしないんだもの――」
六
壁紙のないうす緑色の壁に、大きな世界地図がとめてあ
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