Jと自分がときに唇をよせるほどこんなに近くあるという意外さと、その意外さをよそよそしいものにする、互の生活の本質のところにあって消えない距離の感じ――そのくいちがった感じが伸子の心につよめられた。
 やっとクラマール行の終電車に間に合ってベルネの家のあるサン・クルー街の並木の下を歩いているとき、蜂谷良作は、
「実際、佐々さんは、理論だけじゃない火をもっているんだなあ」
 長い道中、かんがえて来たことのように云った。
「ああいう場所へ、すぐぴったりできるんだから。――僕なんかには、つくづくいくじがないインテリ根性があると思った。――てれ[#「てれ」に傍点]ちゃうんだ」
 会場で伸子が感じたことが、蜂谷の側から語られているのだった。
「ここまで来ればもうついそこなんだから、ちょっと休んで行きましょう、いいでしょう?」
 冬の並木の裸の枝々を照している灯かげからすこしはなれて、石のベンチがあるところだった。伸子は、またまた、彼にほだされながら意気銷沈する自分を見とおし、それに抵抗するように、
「十一月の夜って、石のベンチにいい季節?」
 はじめから、いそいで歩いているのでもない二人の歩調をゆるめなかった。
「僕は、実のところ、伸子さんに会ったのがおそろしいんだ」
「…………」
「僕に、新しい人生が見えはじめている。それを追求しずにはいられなくなってしまった。――だのに、佐々さんは、パリからいなくなろうとしているんだ……ね、伸子さん、僕は、どうしたらいいんだ」
 ファシズム反対の労働者集会からのかえり路に、自分と蜂谷という男女の間には、こうした会話がかわされる。それは、伸子をばつのわるい思いに赤面させ、また悲しくさせる蜂谷の甘えだった。
「ね、蜂谷さん、ほんとに、お願いだから、甘ったれっこなし――。折角、ああいう集会へつれて行ってくれたのに……」
 ベルネの門の、小さいくぐりへ手をかけようとする伸子をおさえて、蜂谷は、
「ひとつだけ」
 顔を近づけた。伸子は、頬っぺたと耳との間を掠《かす》めた蜂谷の唇を感じたまま、門のくぐりへ入ってしまった。
 寝しずまっているベルネの家の階段を、伸子は滅入《めい》った気持でしずかにのぼって行った。蜂谷に抵抗することは、伸子の内に揺れかかる何かにさからうことだった。それは伸子の神経をつからせる。落付かない眼色で部屋の電燈をつけたとき、伸子は枕元の小テーブルの上におかれているマスコットの白い猿によせかけて、素子からの手紙があるのを見出したのだった。
 はじめその手紙を見つけたとき伸子のおもざしがうれしさに輝いた。わざと手をふれずにおいて手紙を眺めながら、伸子は着がえをした。それから浴室で顔と手足を洗った。寝間着にかわって、寝台に入って、足の先でゆたんぽのありかをたしかめてから、伸子は、たのしみに、ゆっくりロシアのスタンプ、フランスのスタンプがいくつも押されている素子からの封筒をひらいたのだった。この前のたよりに、素子は五ヵ年計画第一年度の生産予定に成功したモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の様子を活々した筆で知らせてよこした。ぶこちゃんは、きっとおどろくだろうな。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は変ったよ。アホートヌイ・リャードの闇露店は、すっかり影をひそめたし、いたるところで大建築が開始されている。街は起重機のつき立っている風景だよ、と。
 素子は、この手紙でどんなモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の話をしているだろう。この期待は、今夜のような伸子の感情に一層切実だった。ところが、封をきられた素子の手紙から伸子に向って立ちのぼったのは、もうもうとした黒煙であった。伸子が勝手にパリに滞在しているということにたいする非難と怨みごとの末に、このごろまたちょくちょく花をひいている、二晩つづけて、帰って来た部屋でこれを書いているという文句をよんだとき、伸子は、思わずぎゅっとつかんだ素子の腕を、自分の手の下に感じるような激情にとらえられた。吉見素子! 何といういやさだろう。わざと伸子の大きらいな昔の花遊びをしていることを書くなんて――。
 伸子が、そういう遊びごとをきらうことを素子はよく知っている。ところもあろうにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいてそんなことにまた耽りはじめるとすれば、そのみじめさの動機は、伸子がパリに勝手に暮しているからだ、素子はそう云おうとしている。伸子にはそうとしかとれなかった。だけれども、吉見素子はれっきとした一人前の人間であり、三十をこした女ではないか。伸子の気のよわさで、冷淡でいられない下らない習慣にたよって、はらはらさせて、それで伸子をパリから帰らせようとするのだったら――伸子は、声に出しておこった。悪魔《チョルト》!
 手のなかに感じる素子の腕を、ブラウスごとつかんではげしくゆすぶるように、伸子の心は素子をせめつけた。これまでの手紙で、一度でも伸子に早く帰れと云ってよこしたことがあったろうか。佐々のうちのものがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]経由でシベリア鉄道にのりかえ、日本への帰途についたとき、素子がよこした手紙に、伸子のパリ滞在についての素子の意見は示されていなかった。同時に、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]への土産に伸子がおくったこまごました土産袋についても、素子はひとこともふれなかった。ことづかって行ったつや子から、果して素子がその袋をうけとったのかどうか。それが気に入ったのか、いらなかったのか。土産ぶくろが黙殺されていることで、伸子は自分がパリにのこったことについて素子の不賛成を感じとったのだった。
 伸子は、あてこすりで自分の行動が支配されるのをこのまなかった。年を重ねた素子との生活のうちに、そういう場合がなかったからではなく、反対に、伸子はいまは自分の卑屈さとして、そういう場合をうけ入れすぎていたと思いかえしているのだった。伸子は妻というもののそういう立場に堪えがたくて佃と離婚した、それと同じような素子からの暗黙の制約を素子が女だからということでうけいれるというのは、おかしなことだった。
 いま、こんな手紙をかく素子が、それならロンドンから、どうしてあんなにあっさり伸子をのこして立って行ってしまったろう。はた[#「はた」に傍点]と思いあたるという、その字のとおりに思いあたって、伸子は息のとまるような気がした。あのとき、ロンドンには佐々の一行がみんないた。その家族的な環境を伸子の安全保障のように素子は考えたのだ。だから、親たちがパリにいた間は、伸子がパリにいることも、素子を不安にすることではなかったのだ。
 ――伸子は、ゆっくりと、だが決定的な手つきで素子からのその手紙をひきさきはじめた。五年くらした二人の生活ではじめて、こうして素子からの手紙をやぶいている自分を意識し、そして、これは素子との生活における新しい何ごとかであるということを意識しながら。

 暗く燃え乾いた眼を、煖炉の燠《おき》に据えている伸子の指は、やがて、自働的に動きだし、大きく二つに裂かれたままになっていた素子の手紙を、更にほそいたて[#「たて」に傍点]にさき、またそれを、もっとこまかいきれにちぎって行った。舞台にふる紙雪のような手紙のきれは、伸子の手に掬《すく》われ、指の間からチラチラと寝台のかけものの上におとされる。また掬われ、またおとされ、手紙のきれは伸子の心に、初冬のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街の上に、そして、アストージェンカのかし間の、一つきりしかない内庭に面した窓にふるのだった。一つしかない窓いっぱいにデスクがおかれている。ダッタン人の男の外着のような太い縞の室内着をきた素子が、そこに向ってかけている。パイプをくわえているだろう。刈上げたかぼそいぼんのくぼを見せ、厚ぼったい部屋着が、大人のかり着めいて見えるなで肩で――。彼女が送って来た九十九円七十五銭の為替と、それをもらってよろこんだ伸子が、素子にかいた下手ながら愉しい絵入りの手紙が思い出された。すすり泣きにかわりそうなふるえが伸子をつらぬいて走った。伸子のパリの生活は、素子をだましていることになるのだろうか。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へかく手紙から伸子は、最近おこっている蜂谷良作とのふたしかな感覚のひきあいについて省略している。それが一つのうそであるというならば、伸子は素子に対して正直ではなくなっている。けれども、三十歳になっている一人の女として、素子の立ちいらないどんな感情の小道も経験してはいけないとされても、それは伸子に出来ないことだった。佐々の家のものがみんなでロンドンにいたことで、伸子のロンドンでの生活感情の全部が素子に確保されていたと思うなら、素子はひとの心というものを知らなすぎる。利根亮輔の、人生と学問との上に機智をたのしんでいる態度に、伸子が多くの批評をもったからと云って、それが伸子の意識の底にどんな地位も彼が占めなかった証拠ではなかった。
 伸子は、たしかに、ひとりになってからの生活に起伏する何ごとかについては沈黙して来ている。長年かくしだてなくいっしょに暮して来ている素子が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいて、パリの伸子がよこす手紙の下から、何か語られていないものがある感じをうけるのは、当然だと思わなければならなかった。ほんとに、このごろの伸子は素子に話さないこころの揺れにゆられているのだから。
 それを字にかいてしまえば、もうそれは現実なものとなってしまいそうに不安だものだから、水が渦巻くように怨みごとをつらねながら、なお率直に、きみは、おおかたわたしのいないところで恋愛でもしているんだろう、ときめつけることもできずにいる素子の、素子らしい苦しみかた。――
 素子にうちあけていないのはよくないとして、でも、このごろの蜂谷との微妙な格闘を、伸子は何と素子にしらすべきなのだろう。寝台のかけものの上で掬ってはおとしていた手紙のきれを、伸子は少しずつつまんで傍の封筒へいれて行った。結局蜂谷良作は蜂谷良作であり、伸子は伸子としてのこるだろう。その予感が、こんなにはっきりしているのに。その予感にかかわらず、伸子のこころは、あるところまで決して退場することなしに、この経験を追求しようとしているかたい決心のようなものがあるとき。――伸子は、このすべてがここであるままに、素子に話せようと思えないのだった。
 あくる朝、ベルネの家の朝飯がすむとすぐ、伸子はクラマールの郵便局へ行った。そして、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の素子へ電報をうった。ブ コアヤマル キゲ ンナオセ モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]デ オコツテイルトアタマニワルイ。素子の不安の動機には伸子の責任がある。伸子はそれをすなおにみとめずにいられない。だけれども、素子が苦しんでいるからといって、伸子はどんな風に自分のコースを曲げるとも考えられないのだった。それらの点について、伸子は素子にごめんなさい、というこころもちだった。

        十六

 ことわりなしで、蜂谷良作がおきまりの講義に来なかった。あくる朝になっても、おとさたがなかった。
 伸子は、どうしたものだろう、と思った。考えてみれば、彼の下宿先は、年をとって孤独な画家未亡人の二階で、ちょっと気軽に使いをたのめる人も、そこの家にはいないわけだった。そとでは、冬のはじめの雨が降っている日だった。散歩がてら、蜂谷の下宿へよってみる気で、伸子はひる前にベルネの家を出た。
 雨にぬれて人通りのないパリ郊外の街は静かで、日ごろから門の扉もあけはなされたまま荒れるにまかされている蜂谷の下宿の前庭には、浅い水たまりが出来ている。伸子は、誰も住んでいない一階の隅から、二階への階段をのぼって行った。ぬれた靴が、階段に跡をつけるのを気にしながら。
 伸子は、下宿の未亡人が暮している一つの室のドアをノックした。
「おや、マドモアゼル」
「こんにちは、マダム。
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