O?」
「そんなこと。――スタンダード・オイルの株主じゃあるまいし……」
 少しおこったように蜂谷は煖炉側の椅子をテーブルへひきよせてかけた。そして、ポケットから一冊の仮綴《かりとじ》の本をとり出し、表紙を下にして、自分の前においた。
 その日は、伸子と蜂谷の二度目の勉強日であった。クラマールへ越して来た伸子をあいてに、蜂谷はその火曜日から資本論の講義をはじめた。彼は、伸子を電車通の文房具兼雑貨店へ案内し、そこで新しくベルネの家へ届ける英字新聞と「リュマニテ」を注文したとき、伸子にすすめて二冊の学生用の帳面を買わせた。そして、いかにも学生をあいてに教壇から講義した経験の長い教授らしい扱いかたで、伸子に「資本の生産行程。商品及び貨幣。I、商品」とノートさせはじめた。「商品の二因子、即ち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)」「資本制生産方法が専ら行われる社会の富は『尨大なる商品集積』としてあらわれ、個々の商品はその成素形態としてあらわれる。故にわれわれの研究は、商品の分析をもってはじまる」
 伸子の茶色堅表紙のノートのうしろには、幾何を習いはじめる学生のために線、面、立体とわけて、直線、曲線、円、平面、球体、円錐体などの基本図がついていた。それぞれの頁の左に、見出しを書くためだろう、牡丹色の縦線がひかれている。伸子は、蜂谷のいうままに、その帳面をひろげてノートしはじめたが、そこの一区切りへ来たとき、鉛筆をもっていない左の手の先をちょっとあげるように合図して、
「待って下さらない?」
と云った。
「何だか、わたし、こういうやりかた、変だ」
 顔をあからめながら、伸子は困った視線で蜂谷を見上げた。蜂谷は、第一日から自分の席は伸子のかけている場所と正反対の煖炉側ときめていて、火の気のない煖炉を横にしてテーブルへ片肱かけ、仮綴の本から、伸子がノートしている文句をよんでいるのだった。
「蜂谷さん、その本にかいてあるとおりを読んで下さっているの?」
「――そういうわけでもないが……」
 伸子は自分の率直な質問が蜂谷に与えたショックに気づかず、遠慮するように云った。
「すみませんけれど、わたし、経済の勉強って、これまでしたことがないでしょう? だから、専門語かもしれないけれども成素形態なんて言葉、考えてみなけりゃ意味がわからないんです。あたりまえに云えば、エレメンタルな形態ってことじゃないのかしら」
「大体そういう意味だといってもいい。しかしこまかくいうとドイツ語では英語のエレメンタルというよりも、もっと複雑で有機的な内容なんだが……」
「あたりまえの言葉でノートさせていただけないかしら。どうせ経済学者になるんじゃないんですもの。たとえば、『資本主義社会の富は、集積された商品の形であらわれるから、一つ一つの商品は、その富のエレメントにあたる。故に』っていう工合で間違っていなければ、その方がわかりいいんだけれども――」
 蜂谷は苦笑して、柔らかい自分の髪を撫で、椅子の上で脚をくみ直した。もし蜂谷がもっている本をそのまま読んでノートするのなら、それは二重の手間だ、と伸子は考えたのだった。じかに、その本を借りて読んで、解釈してもらえばいいのだから。――でも、そこまでいうのは蜂谷を侮辱するように思えた。
「あなたは、案外せっかちなんだな」
 冷静な意志で、はねる馬をくつわで導いて行こうとしているように、蜂谷が云い出した。
「こういう厄介なものの勉強は、直感的な文学とちがってね、どこまでも理詰めにやって行くしかないんだ。ある区切りまで先ずノートして、それから細部の解釈に入るのが、普通のやりかたなんです、平凡だけれどもね。これから、使用価値とは、どういうものか、というような説明もはじまろうというわけだ」
 伸子は、おとなしくなって、蜂谷の言葉をきいた。
「佐々さんの理解力はおどろくほど範囲がひろいけれども、こういう分野は、云ってみれば未開墾だから――しばらく辛棒してごらんなさい。あなたのようなひとには、やっぱり理詰めの分析に興味が湧くにちがいないんだ」
 そういうわけで、第一日の四時――五時半のうちに、伸子は、使用価値とか交換価値とかいうものの本質について、混同しぼんやりしていた理解をいくらか整理させられたのであった。
 第二日目は「そこで商品をその使用価値から離れてみるとき、残るところはただ労働生産物たる一性質のみである」からはじめられた。いろいろな労働の有用性だの具体的な形態だのから「すべてが等一なる人間労働、即ち抽象的人間労働に約元され」人間労働力の支出の凝結が価値である、ということを、伸子は、一歩さきはどうなっているのか見当のつかない嶮岨《けんそ》な山道をのぼって行くような困難さで、のみこもうとするのだった。
 それにしても、と伸子はノートしながら考えずにいられなかった。ウォール街の恐慌は、どうしておこったのだろう。そもそも恐慌とは? 十月二十九日のウォール街で一千万株投げ出されたという株とは何だろう。伸子は恐慌ということは、もとよりあらましは知っているつもりでいた。株についても。ジェネラル・エレクトリックが一九二九年最高四〇三だったのに十月二十九日には二五〇に下って低落三八%、スティール・トラスト二六一3/4が一八五1/2、クライスラー自動車一三五3/4が三九3/4で七一パーセント惨落した。これが株をもっている人々に損をさせる事実であることもわかる。「リュマニテ」は書いていた。「ヒルファーデングの仮面ははがれた」「『組織化[#「組織化」に傍点]された資本主義の計画的[#「計画的」に傍点]経済』は二百五十億ドルの損失によって、労働者・技師・勤人・中小企業者・農業家・数百万の小投資者の生活を破滅させつつある」と。
 このパニックで、真に破滅させられたのは小さい投資家たちとその家族――働いてためた金を株にかえた数百万のあたりまえのアメリカの人たちとその家族であり、億万長者のモルガン一家はおそろしい混乱を通じて益々富を集中しつつある。ここに血が引いてゆくような資本主義の非人間性があった。字として、恐慌や株やを知っていたはずの伸子の眼の中に、きつい火を点じさせ、全身にいきどおりを伴った探究欲を刺戟しずにいない社会生活のうめきがあるのだった。
 伸子は、ノートを早めに切りあげてもらった。そして、けさのニュースについて話しはじめたとき、まるで、日本語がわかりでもするように、台所と食堂との境のドアがあいて、ベルネのおばあさんが愛嬌よく入って来た。そして、蜂谷に、夕飯をみんなと一緒にたべて行くようにすすめた。
「ムシュウ・アチヤ、お引越しになっても、あなたがわたしたちの御親切な友達であることに変りはございませんよ」
「ありがとう、マダム。おことわりする理由をもちませんよ」
 ベルネの家の夕飯は七時だった。
「しまりやのお婆さんが招待するなんて、めずらしいな。何かあるんだろうか」
 食卓の用意がされる間、伸子と蜂谷とは家を出て、前の通りを畑の方へ散歩した。ベルネの家で客間がつかわれるのは一年のうちにいくたびだろう。閉ったドアの内部の様子はわからなかったが庭に面した鎧戸がしめられている客室のヴェランダの床には梨が並べられるきりで、伸子のところへ蜂谷が来ても、マダム・ラゴンデールが来ても、その応接は食堂だった。伸子が来てからベルネへ訪問客というのはなかった。

        五

 食事が終りに近づくにつれて、ベルネ一家のものが知りたがっていること、とくに、クラマールでは一流の洗濯工場の経営主であるアルベール・ベルネの知りたがっているのは、ウォール街の恐慌がフランス経済にどう影響するだろうかという点であることが、伸子にもわかって来た。
 ジャックの家出をとめてベルネ一家に信用を得ている蜂谷良作は、ウォール街恐慌の問題では、明らかに教授[#「教授」に傍点]として、その言葉を家内一同から期待されているのだった。
 その晩のベルネ家のテーブルのまわりは興味ある光景だった。節だって赤い四角い手をしたベルネのおばあさんは、その手の指を組みあわせて祈祷台へ置いているようにテーブルの上におき、灰色がかって碧《あお》い瞳を蜂谷良作の上にすえている。そのとなりで、ジャックは、十九歳の長い脛をもてあつかうようにいくらかずりこけて椅子にかけ、うつむいて、ポケットに入れていない方の片手の指さきでパン屑をこねている。
 憂鬱そうな顔をして、ときどき細い指で捲毛をいじっているフランシーヌ。むしろ骨太にがっちりとした大柄の体格を、刺繍飾りのある平凡なサージのワンピースにつつんで、姿勢正しく主婦の座について、はげしい関心をかくしているマダム・ベルネ。主人のアルベールは、故郷のルーマニアから兵隊になってフランスへ来ているうちに、どうしたことからか、この細君と結婚するようになった。それというのも、と、アルベール自身が伸子に話してきかせたところによると、いまこそ短く苅りこまれて見事なつやも消えてしまっているけれども、アルベールの金色の髭と云えば、その絹のような美しさで近隣の娘たちを魅惑したものだったからだそうだ。そしてその話も半分は本当らしかった。クラマールで庭のある石造りの家をもち、工場ももっている一家の基礎が、赤くて四角い手をもった母親とその娘である細君につながるものであり、ムシュウ・ベルネは主人であって、同時に、一家の稼業は手の赤いおばあさんと骨太で実際的な細君との注意ぶかい目の下に運ばれているわけなのだった。フランシーヌが洗濯工場ときりはなして育てられているそのことにも、おばあさんと母親との計画がある。
 アメリカの市場ではこの数年来、投機によって証券の価格がつりあげられ、最近の一年半だけでさえ平均一倍半にあがった。配当もスティール株などは二割五分以上であったからアメリカ全土のいくらかでも貯蓄をもてるようになったすべての人々は、誰も彼も、投資熱にまきこまれた。これは当然危険を意味する現象だったけれども合衆国銀行の頭取ミッチェルその他財界の大立物たちは、株の高いのは将来もっと利潤が多くなるという確かな期待に立ってのことであるし、配当も将来もっと多くなると期待される、と云いつづけた。アメリカじゅうの「素人《しろうと》筋」は完全にそれにだまされたのだった。
「事実を冷静に観察する専門家の中には、市場は、人工的に押し上げられて来た自身の重さで潰れるだろうと、警告していた者もあります。すでに九月に恐慌の波頭が見えたときに」
「一度も二割五分の配当なんかにあずかったことのないフランス人は、アメリカの恐慌のおつき合いを欲していません。少くとも、わたしはそうだね」
 ベルネのその言葉は、彼と蜂谷との会話に注意を集めている家族に対して、主人としてやや特殊な立場にある彼の見識を示すために云われたように伸子は感じた。
「フランスは、フランの切下げ以来ヨーロッパのどこよりも経済事情が安定している。いますぐ恐慌でかき乱されることはないでしょう。しかし、こんどの大規模なアメリカの恐慌が世界経済に影響しないということは、絶対にあり得ない」
「――絶対に?」
 正しい姿勢で椅子にかけたまま、細君がテーブルのむこうの端から訊きかえした。
「フランスに対する影響は、ゆるやかに、或は一番最後にあらわれるかもしれない。だが、さけるということは出来ますまい」
「ふむ。天然痘だってね、最後にかかった奴のあばた[#「あばた」に傍点]はいつも深くのこるもんなんだ」
「ほんとうにみんな戦争ですよ。戦争ってものは、一つだっていいことはのこさないもんですさ」
 おばあさんは、肩にかけている薄い毛糸の肩かけを、一層赤くなったように見える両手で胸の前へひっぱりつけながら、ためいきした。
「ご覧なさい。戦争で儲けたのはアメリカでしたよ。景気《ブーム》! 景気《ブーム》!」
 ベルネのおばあさんは、がんこ[#「がんこ」に傍点]ものらしく、ブーム、ブーム、と口をとがらせて蒸気が噴くように云った。
「あげくに、こんどは恐慌《パニク》! それ
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