ナ住むことのできる室が必要なんです」
「――では、ここはひろすぎますわ」
機智のこもった主婦の視線が、ベレーをかぶって、パリ風というよりはイギリスごのみの学生風ななりをして窓から景色を見ている伸子をちらりと見直した。この主婦が、ひろすぎますわ、といったことは、とりもなおさず、この方には場ちがいなところですわ、という意味だった。伸子は、お愛想ばかりでなく、
「すばらしい眺めですこと!」
と、その部屋をほめた。
「この室は、ほんとの贅沢部屋です」
伸子と蜂谷とをドアのところへ送り出しながら主婦は人をそらさない調子で、
「わたしどもも、この室の眺めは、ほんとに愛しているんです」
と云った。この景色があるばかりで、彼女のもっているこの一室はどんなにねうちがあるかということへ満足をこめて。
往来へ出ると、伸子は笑って蜂谷良作に云った。
「あのマダム、まるで金の玉子を生む牝鶏《めんどり》のことでもいうように、あの部屋の景色のことを云ったわね」
「ハハハハ。金の玉子をうむ牝鶏か。なるほどね、彼女にとってみれば、そうにちがいないわけだ」
蜂谷良作と伸子は、ペレールへ向って歩きながら、途中で休んだ。
「この辺でさがすとなると、どうしても、あんな風な部屋になってしまうんだな」
「ひまつぶしをおさせして、ごめんなさい」
「暇なんだから、一向かまいませんよ。僕も興味がなくもない」
いやがらないで蜂谷が時間をさいてくれただけに、伸子は彼にだらだらと部屋さがしをてつだって貰うことは、押しつけがましいと思った。男のひとが若い女に示す好意に甘えて、何かをたのむというような習慣を伸子はもっていないのだった。
「もうひとところ、下宿《パンシオン》であるんだが、いちどきに二つはくたびれるでしょう?」
「それはどのへん?」
蜂谷はポケットからノートブックをとり出して、アドレスをしらべた。
「僕も行ったことはないんだが、キャルディネ通りっていうんだから、どっかモンソー公園とワグラムの中間あたりじゃないのかな」
パリのそんなこまかい通りを、日ごろ市外に住んでいる蜂谷良作が知っているとは思えなかった。凱旋門のそばの貸室を、彼は伸子の電話をきいてから新聞広告で見つけだした。下宿というのも、同様の方法で目星をつけたのだろう。伸子をつれてあんまり迷わないように、彼は地図を見て来たのかもしれなかった。
伸子は、いつも持っている赤い表紙のパリ案内を出しかけた。そして蜂谷からキャルディネという町名の綴りを教わりながら頁をくると、それは親たちの住んでいるペレールと同じ第十七区だった。
「ああ、あった。ここだわ。ホラ、キャルディネ……。近いし、わかりやすいところなのね」
桃色にぬられている地図を見ながらちょっと思案して、伸子は、
「番地教えていただいて、あしたでも、わたし自分で行って見ます」
と云った。蜂谷は、そういう伸子をいくらか解せなそうに、
「僕の方は、ほんとにかまわないんですよ」
額によこ皺をよせるようにして伸子をみた。
「一人じゃ、交渉なんか、めんどうくさいでしょう?」
伸子の言葉が不自由なのを、蜂谷はそういう表現で云った。
「ありがとう。――でも、また無駄足だとわるいから……」
何となし伸子にはそんな予感があった。
「そんなことは、室さがしにつきものだ。ともかく、あした、あなたのいい時間によりましょう」
キャルディネ通りの下宿の経営者はふるい軍人あがりらしい老人であった。彼が、ともかくうちの庭を見て下さいと、蜂谷と伸子とを、いきなり庭へ案内したのは、かしこいことだった。というのは、こぢんまりした三階の建物に沿ってしつらえられている生粋《きっすい》にフランス風の小砂利をしいた細長い庭こそ、その下宿《パンシオン》の気質《かたぎ》を語っていたから。奥が深いかわり間口が狭い庭に、夏の日をしのぎよくするための葡萄《ぶどう》棚がつくられていて、建物の入口の横から庭へはいる境は、低い植込みだった。手入れのゆきとどいた小砂利の上には、白く塗った鉄の庭園用テーブルと同じ椅子が三つ四つおかれて、その一つに、黒ビロードの部屋着を羽織った髭の白い老人が、小型の本を片手にもってよんでいた。老人の頭に、黒ビロードの室内帽がかぶられている。老人は、しずけさのうちにゆるゆるとすぎていく時間を居心地よく感じているらしく、低い植こみのかなたに現れた伸子と蜂谷の方へ、自然な一瞥を与えたきり、ふたたび読書に没頭して行った。
パリの賑やかさのうちに静けさをたのしんで生きている恩給生活者を主な客としている下宿であることは、庭の様子に語られていた。そして、どこか武骨なところのある経営者は、自分の下宿《パンシオン》が、古いフランス流儀でとりまかなわれていることを、ほこりとしているにちがいないのだった。
建物について入口の方へもどって行きながら、伸子は、
「何て、ことわりましょう」
こまったように蜂谷良作を見上げた。
「面白いけれど、住めないわ。――あんまり巡回図書版のアナトール・フランスごのみで……」
蜂谷良作は、入口の石段のところに立って彼らの戻って来るのを待っていた経営者に、
「非常に居心地よさそうで、ちゃんとした庭をおもちですね」
と云った。
「そうです、そうです、ムシュウ」
「ところで、あなたの下宿《パンシオン》は、外国人にあんまり馴れておいででないように見うけますが……」
「そうです、そうです、ムシュウ」
「わたしたちは、あなたの伝統に敬意を表しましょう。このマドモアゼルは、主に英語を話しますから」
「そうです、そうです、ムシュウ」
年よりの角顔に、安心したような、気のいい微笑が浮んだ。
「さようなら、マドモアゼル」
老人は、子供の時分から見なれて年月を経た大木をいつか愛しているように、自分の下宿の伝統を愛しているのだった。
その日、伸子と蜂谷良作は、もうひとところの貸室を見た。セイヌ河のむこうにあるアトリエだった。古い寂しい横丁に面した一つの石門をはいると、そのすぐ右手に住みすてられたようなアトリエがたっていた。趣味のある大きい鉄の蝶番《ちょうつがい》つきの小扉をあけると、そこがもう煉瓦じきのアトリエの内部だった。なかくぼに踏みへらされた煉瓦の床に窓からの日かげが流れていて、高いガラス張りの天井から落ちる光線が、うっすり埃をかぶった中二階の手すりや、その辺のがんじょうな木組みを見せている。いつ舞いこんだか、床にマロニエの枯葉がころがっている。
それは荒廃したアトリエだった。ほんとに仕事をする場所としては、もう役に立たないところかもしれなかったが、伸子の目にうつる廃屋めいた風情は、空想をそそった。一緒にくらす愛するものがあったら、こんなところに暮してみるのも面白かろう。町すじの寂しい人気なさ。見すてられているようなアトリエ。男と女とが棲《す》むのでなければ、ここでの生活の愉しさはかもし出されようがない。
蜂谷良作と伸子とは、小扉をあけてアトリエに入ったところにたたずんだまま、しばらく黙ってその辺を見まわしていた。
「――どう? そろそろ行きましょうか」
そう云ったのは伸子だった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、あんなに部屋さがしをした。だけれども、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]での部屋さがしは、ほんとにいそがしい生活と生活との間に見出そうとする空間の問題のようで、そこに住むのが男であろうと、女であろうと、第一に考えられるのは、そこが健康に適しているかいないかということだけだった。いまこのアトリエを見まわしている伸子の心に湧いたような空想をおこさせた場所は、どこにもなかった。それは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活そのものが、沸騰し、充実した活動にみたされているためにそうなのだろうか。それとも、伸子が素子と一緒に暮していた、そのせいだろうか。
落葉のちっている古い歩道に、男の靴音と女靴の小さい踵《かかと》の音とをまじえて歩きながら、伸子は、
「なかなか住めるってところはないものなのね」
複雑にゆすられたこころもちを、室さがしという話の幅におさめて、蜂谷良作に云った。こういう風に室さがしをやりはじめて、伸子は、二人でさえあれば、どんなところにでも住めるのに、と思うことが多かった。二人でさえあれば、と云って、その二人のうちの自分でないもう一人は、伸子にとって現実のどこにいるのでもないのだった。
「室さがしなんて、大体こんな工合のものなんですよ」
蜂谷良作と伸子はセイヌ河の古本屋通りへ向ってゆっくり歩いた。
「たった二日歩いたぐらいで飽きたんじゃあ、室さがしは出来ない」
「飽きなんかしないけれど……」
つまりは、現在いるところがあるからだ、と伸子は思った。
伸子は、けんかしたあとも、夜はきちんとホテルへ帰って、そこで寝た。ペレールから伸子が歩いてホテルへ戻るのは大抵夜の十時か十一時で、マネージャーの親爺はその時刻に、帳場にいることもあり、いないこともありだった。いたにしても、伸子が正面のしゃれた模様入りのガラス扉をあけると、そこから入って来るのが伸子だということをとうに知ってでもいたように、決して入口に顔を向けず、帳簿つけのようなことをやっていた。伸子の荷物が往来にほっぽり出されることもなく、七階の屋根裏部屋を伸子のカギであけたとき、先ず目をやる枕の上の白い猿のおもちゃにも異状はなかった。
だからと云って、彼らが伸子を出て行かせようとしていることは同じだった。マネージャーの細君である非常に肥った女が、捲毛をたらした頬に愛想笑いを浮べて、ある朝、伸子のそばへよって来た。
「こんにちは、マドモアゼル」
「こんにちは」
マダムとつけるべきところだろうが、伸子にはそう云えなかった。
「マドモアゼル、お部屋は見つかりましたか?」
「いいえ」
それをきくと細君は、自分の胸の厚さでおすようにして伸子をエレヴェーターのものかげへひきよせ、指環のはまっている片手を伸子の腕の上において、ひそひそ声で半ばおどすように云った。
「マドモアゼル、おわかりでしょう? お部屋を早くおみつけなさい。わたしは、毎日、うちのひとをなだめているんですよ、あのかたは教育のあるマドモアゼルなんだからって」
「ペレールに住んでいるわたしの家族が十月末にはパリから出発します、それと同時に、わたしも引越しましょう」
「おお! マドモアゼル、それは、わかっていますよ」
アパルトマンの門番からでもききだしているらしく、ほんとにそのことは知っているくちぶりだった。
「でも――今月末!」
細君は息を吸いこんだまま伸子を見つめて、かぶりをふった。
「マドモアゼル、部屋をおさがしなさい。あなたがいい方だということは、わたし、よくわかっているんです。ね? よございますか? マドモアゼル」
それは、いい子だからねとくりかえして、いやがる使いに娘を出そうとするおふくろの言葉のようだった。
七
伸子の部屋さがしの中途で、両親がジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ立つ日が来た。
前の晩、おそくまで多計代の手伝いをして、つや子の部屋に泊った伸子が目をさましたとき、窓の外に雨が降っていた。
こんな天気で立てるのかしら。伸子はそう思った。多計代は和服だから、雨降りだと不便なばかりでなく、また気分がわるくでもなるのではないかと思った。
本来ならば、おととい、親たちはジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行っていたはずだった。朝十時の列車にのる予定で出た泰造と多計代とは、ペレールの住居で伸子とつや子が、もう汽車にのりこんだだろうかと話しているところへ、不機嫌な顔を並べて戻って来た。多計代の気分がわるくなって、どうしても出発できなくなったのだった。
泰造は、病弱な妻をつれて旅をしているためにおこるそういう不便にはなれて来ていても、多計代が云った何かのことで、ひどく傷つけられているらしく、
「伸子、おっかさんを見てやってく
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