いうのは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にある対外文化連絡協会の略称であった。この対外文化連絡協会は、ソヴェト同盟の各都市に支部をもっているとともに、世界の国々に出張してもいる。伸子たちが、旅券の裏書のことで東京にあるソ連大使館のなかに住むパルヴィン博士に会った。あの灰黄色の眼をした巨人のようなひとも|ВОКС《ヴオクス》の東京派遣員であった。こんど、佐内、秋山その他の人たちが国賓として来ているのも、万事は|ВОКС《ヴオクス》の斡旋によった。
 瀬川につづいて、出かける仕度に部屋へ戻ろうとする伸子たちに向って、茶道具がのったままのテーブルのところから秋山宇一が、
「|ВОКС《ヴオクス》で、すごい美人がみられますよ。イタリー語と日本語のほかはあらゆる国語を話すんだそうです。アルメニア美人の典型でね――まア、みていらっしゃい」
 笑いながらそう云った。

 黒い羊のはららごの毛皮でこしらえたアストラカン帽をかぶり、同じ毛皮の襟のついた外套を着た瀬川雅夫について、素子と伸子とは雪の降る往来へ出た。ホテルの前の大きい普請場の入口を、いま一台の重い荷馬車が入りかけているところだった。歩哨の兵士のきているのによく似た裏毛の防寒外套の胸をはだけたまま、不精ひげの生えた頬っぺたの両側に防寒帽のたれをばたつかせたまま、馬子は、
「ダワイ! ダワイ! ダワイ!」
と太い声で馬をはげまし、轅《ながえ》のところへ手をそえて自分も全身の力を出しながら、傾斜した渡板のむこうへ馬をわたらした。ダワイということばは、呉れ、という意味だとならった。馬子は、いかにも元気の出そうな調子でダワイ、ダワイと叫んだけれど、それはどういう意味なのだろう。一足おくれていた伸子に、
「ぶこちゃん!」
 素子が大きい声でよんだ。ホテルを出たばかりの街角に、三台橇が客待ちしていた。その一台に、素子がのりかけているところだった。日本風呂敷に包んだ大きい箱のようなものをわきにかかえた瀬川雅夫が、素子と並んでかけた。
「ぶこちゃん、前へ立つんだよ」
「どこへ?」
「ここへ――十分立てますよ」
 瀬川雅夫が防寒上靴をはいた足をひっこめながら云った。
「ほんの六七分のところだから大丈夫ですよ。却って面白いじゃないですか。……ほら、こうして」
 箱を素子にあずけ、瀬川は素子を自分の膝に半ばかけさせるようにした。
 三人をつみこんで橇は、トゥウェルスカヤの大通りへ向けていた馬首をゆっくり反対の方角へ向け直し、それから速歩で、家の窓々の並んだその通りを進みはじめた。いかにも鮮やかな緑色|羅紗《らしゃ》に毛皮のふちをつけた御者の丸形帽に雪は降りかかり、乗っている伸子たちの外套の襟や胸にも雪がかかる。それは風のない雪だった。橇はじき、トゥウェルスカヤの大通りと平行してモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を縦にとおっている一本の街すじへ出た。そこは電車の通っていない商店街だった。パン屋。本屋。食料品店。何をうっているのか分らないがらんとした幾軒もの店。ショウ・ウィンドウが一面白く凍っていて花の色も見えない花屋の店。店の前のせまい歩道では防寒用に綿入れの半外套を着、フェルトの長靴をはき、ふくらんだ書類鞄をこわきにかかえた男たちが、肩や胸を雪で白くしながら足早に歩いている。茶色の毛糸のショールを頭から肩へかぶった女たちが、腕に籠をとおして、ゆっくり歩いている。向日葵《ひまわり》の種をかんで、そのからを雪の上へほき出しながら散歩のようにゆく少年がある。その街は古風で、商店は三階建てで雪の中に並び、雪の匂いと微《かす》かな馬糞のにおいがしている。伸子たちののっている橇は、国立音楽学校の鉄柵の前を通りすぎ、やがて右側のひろい段々のある建物の前へとまった。
 三人で、その低い石段をのぼるとき、素子が何かのはずみで雪の上で足をすべらし、前へのめって、段々に手袋をはめた手をついた。素子はすぐ起き直った。そのまま表玄関に入った。
 そこが|ВОКС《ヴオクス》の建物であった。防寒靴を下足にあずける間も伸子は深い興味をもってこの二十世紀初頭の新様式(ヌーボー)で建てられている建物を見まわした。いずれは誰かモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の金持の私邸として建てられたものだろう。表玄関からホールを仕切る大扉の欄間がステインド・グラスで、そこにはカリフォルニア・ポピーのような柔かい花弁の花が、大きくその蔓《つる》を唐草模様にして焼きつけられている。そのステインド・グラスの曲線をうけて、見事な上質ガラスのはまった大扉の枠も、下へゆくほどふくらみをもった曲線でつくられていて、華やかなガラスの花をうける葉の連想を与えられている。すぐとっつきに表階段があった。その手すりは大理石だが、それもヌーボー式のぬらりとした曲線で、花の蕊《ずい》が長くのびたように出来ている。おそらくフランス風を模倣してつくられたものだったろう。けれども、生粋にフランス風なひきしまった線は装飾のどこにも見当らなかった。あらゆる線の重さとその分厚さがロシア風で、この屋敷の豪奢《ごうしゃ》は、はっきり、ロシア化されたフランス趣味というものを語っているようだった。
 対外文化連絡のための事務所として、この建物を選定したとき、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のその関係の委員会の人々はみんなこの建物を美しいと思い、外国から来るものに、観られるねうちのあるものと思って選んだろう。でも、その人々は、この建物の華麗が、フランス風を模しながら、こんなにもずっしりしたロシア気質を溢らしているという点の意味ふかい面白さ、殆どユーモアに近い面白みを、予測しただろうか。
 伸子は、一層興味を動かされて、ホールの左手にある一室に案内された。そこが応接室につかわれていて、もう数人の先客が、いくらか褪《あ》せた淡紅色のカーペットの上に自由にばらばらおかれている肱《ひじ》かけ椅子の上にかけていた。もとも、ここはやっぱり冬の客室につかわれていたらしく、曲線的なモーデリングのある天井は居心地よいように、暖い感じのあるように割合低く、奥ゆきのある張出し窓が通りに面している。そこにシャボテンの鉢植がのっていた。入ったつき当りにも出窓があり、その前に大型の事務用机が据えてある。事務机はもう一脚、あまりひろくないその室の左手の隅にあるきりだった。そっちでは白いブラウスを着た地味な婦人が事務をとっている。
 秋山宇一が特別注意した美人というのは、一言それと云われないでもわかるほど、際だった容貌の二十七八のアルメニア婦人だった。黒のスカートにうすい桃色のブラウスをつけ、美しい耳環をつけ、陶器のように青白い皮膚と、近東風な長い眉と、素晴らしい眼と、円くて、極めて赤い唇とをもって、その室に入ったつき当りのデスクをうけもっているのであった。
「ああ、プロフェッソル・セガァワ!」
 てきぱきした事務的な愛嬌よさでそのひとは椅子から立ち上った。そして、手入れよく房々とちぢらした黒い髪を頸のまわりでふりさばくようにして、デスクのむこう側から握手の手をのばした。それと同時に、新しい客としてそこに佇んでいる伸子と素子の方へ、それぞれ笑顔をむけ、やがてデスクのうらから出て来て、握手した。
「これが、ここの事務責任者のゴルシュキナさんです」
 そして、一人一人伸子と素子の専門と、ソヴェト旅行は個人の資格で来ていることを紹介した。
「ようこそおいでになりました」
 美しいその人は、仕事に訓練された要領よさで、いきなり英語で伸子たちに向って云った。
「私たちは、出来るだけ、あなたがたの御便利をはかりたいと思います。――どのくらい御滞在になりますか」
 素子が一寸|躊躇《ちゅうちょ》した。伸子は、
「瀬川さん、すみませんが、こう返事して頂戴《ちょうだい》。私たちは旅費のつづく間、そして、ソヴェトが私たちを追い出さない限り、いるつもりですって――」
「それは愉快です」
 ゴルシュキナは笑い出して、伸子の手をとった。
「じゃ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]観光も、あんまりいそがないおつもり、というわけでしょうか」
「もちろんいろいろな場合、御助力いただかなければなりませんけれど、まあ段々に――。わたしは早くロシア語で蜜柑《みかん》を買えるようになりたいんです」
「あら、蜜柑がお気に入りましたか」
 こんどは伸子が笑い出した。ゴルシュキナは一緒に笑いながら、その黒い、大きい、睫毛《まつげ》がきわだって人目をひく眼に機智を浮べた。そして云った。
「ソヴェト同盟を半年の間見物してね。最後に、一番気に入ったのは塩漬胡瓜だ、とおっしゃったお客様もありました」
 瀬川雅夫は、ゴルシュキナに、カーメネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夫人に会いたいと云った。
「一寸お待ち下さい」
 ゴルシュキナは、もう一つのデスクにいる婦人に、ノートを書いてわたしながら、
「みなさんお会いになりますか?」
ときいた。
「どうです、丁度いい機会だから会っておおきなさい」
 伸子たちにそう云って、瀬川は、
「どうか」
と、ゴルシュキナが書きいいように丁寧《ていねい》に吉見素子(ロシア文学専攻・翻訳家)佐々伸子(作家)と口述した。
 これで、伸子たちとの用に一段落がつき、ゴルシュキナは、さっきから待っていた三人のアメリカ人に、出来て来た書類をわたして説明しはじめた。
 そこへ、しずかな大股で、ひどく背の高くてやせて赧《あか》ら顔の四十がらみの男が入って来た。
「こんにちは、プロフェッソル瀬川」
 その声をきいて、伸子は思わずそのひとを見直した。こんな低音でものを云うひとに、はじめて出会った。それが自然の地声と見えて、ノヴァミルスキーというその人は瀬川に紹介された伸子たちに、やっぱり喉仏が胸の中にずり落ちてでもいるような最低音で挨拶した。彼の手には、さっきゴルシュキナが、もう一つのデスクの婦人にわたした水色の紙片がもたれていた。
「一寸おまち下さい」
 その室を出て行ったノヴァミルスキーは程なく戻って来た。そして、
「カーメネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夫人は、よろこんでお目にかかるそうです」
 例の最低音で云いながら、社交界の婦人にでもするように伸子たちに向って小腰をかがめた。
 ドアの開けはなされたいくつかの事務室の前をとおりすぎて、三人はその建物の奥まった一隅に案内された。たっぷり首から上だけ瀬川より背の高いノヴァミルスキーが、一つのドアの前に立って、内部へ注意をあつめながら慎重にノックした。若くない婦人の声が低く答えるのがきこえた。ノヴァミルスキーは、ドアをあけ、
「プロフェッソル瀬川」
と声をかけておいてから、
「さあ、どうぞ」
 自分はそとにのこって、ドアをしめた。
 そこは、明るい灰色と水色の調子で統一された広い部屋であった。よけいな装飾も余計な家具もない四角なその広間の左奥のところに立派なデスクがあった。その前に白ブラウスに灰鼠色のスーツをつけた断髪の婦人がかけて、書類をみていた。四十歳と五十歳との間ぐらいに見えるそのがっしりした肩幅の婦人は、瀬川や伸子たちが厚いカーペットの上を音なく歩いて、そのデスクから五六歩のところへ来るまで、手にもっている書類から視線をあげなかった。
「こんにちは。お忙しいところを暫くお邪魔いたします」
 いんぎんな瀬川の言葉で、その婦人は書類から目をあげた。
「こんにちは」
 そして、椅子から立ち上って、伸子たちに向って、辛うじて笑顔らしいものを向けた。伸子には、彼女のその第一印象がほんとに異様だった。男きょうだいのトロツキーにそっくりの重たくかくばった下顎をもっているカーメネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夫人は、じっと三白の眼で対手を見つめながら、奥歯をかみしめたまま努めて顔の上にあらわしているような笑顔をしたのであった。伸子は若い女らしく、ぼんやりした畏怖《いふ》をその表情から感じた。
 瀬川雅夫は、夫人のそういう表情にももう馴れて
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