狽ェ全部ってわけはないんでしょう」
オリーヴ色の小型カバンを足もとにおいている素子が云った。
「ところがね、大体似たりよったりの感情らしいんです。ただそれを口に出すか出さないかだけでね。わたしのきいた範囲じゃ、このごろのドイツ映画はきたないのがはやりだから、この位が通用するのかもしれん、というのが、最も進歩的な意見だったですよ」
「冗談じゃない!」
みんなが苦笑した。
「ああいう連中はね」
川瀬勇が、云った。
「下宿の神さんや娘や、その他おなじみの女たちに、せいぜい刺繍したハンカチーフだの何だのやっちゃ、大いに国威[#「国威」に傍点]を発揚していたのさ。富士山《フジヤマ》だの桜だのってね。そこへ、『シャッテン・デス・ヨシワラ』に出られちゃ、顔がつぶれるっていうわけさ、被害甚大ってわけさ。まさか見るな、とも云えまいしね。御婦人連は、おあいそのつもりで、わいわい云うんだろうし……」
プラット・フォームから頭をのばして、村井がレールの鳴り出した高架線の前方をすかして見ていた。
「来たようですよ」
伸子と素子は、一人一人に握手した。
「どうもいろいろありがとう」
「かえりにまたどうせよるんだろう?」
地ひびきを立てて入って来た列車は、惰力をおとしてやがて停ろうとしている。その車室の窓に沿って、伸子たちは、長い列車のなかごろまでいそいだ。
「ここだ、九番でしょう?」
「そうだわ。どうもありがとう」
伸子はステップへあがって、棒につかまりながら素子の肩ごしに、
「じゃ、さようなら!」
プラット・フォームに立っている川瀬たちに向って手をふった。
「ね、みなさん、お願いよ。中館さんをなぐらせたりしないでね」
動き出した列車に向って歩きながら高くのばした腕を一つ二つ大きく振る川瀬勇の姿が、人影のまばらなプラット・フォームのアウスガング(出口)と白い字でかかれた札の下に遠くなった。
[#改丁、ページの左右中央]
道標 第三部
[#改丁]
第一章
一
毎晩七時に、リオン停車場からマルセーユ行の列車が出る。その列車でパリを立つと、翌朝七時に、マルセーユに着く。五月二十日ごろ佐々の一家をのせて神戸を出帆した日本郵便《エヌ・ワイ・ケイ》株式会社のカトリ丸は七月一日の午前九時ごろにマルセーユへ入港する予定だった。マルセーユの駅からホテル・ノアイユへよって、パリの日本大使館のムシュウ・マスナガが契約しておいた部屋と云って一応たしかめておいてから、埠頭《ふとう》へ迎えに行けばよいだろう。増永修三が、マルセーユ行の切符とともに伸子に与えた指図は、そういうことであった。
六月三十日の夜七時に、伸子は一人で、ガール・ド・リオンから出発した。どんなあい客が、いつどこからのって来るか予想されない車室《クーペ》のなかに、さし向いでとじこめられる一等車をさけて、伸子の乗ったのは、日本の汽車のような体裁の二等車だった。
車内は、八分どおりのこみかたで、伸子は二人ならびの席にひとりでかけられた。伸子は、ウィーンで買ったクリーム色の小さい手提鞄を用心ぶかく自分の体と窓の間におき、言葉のよく通じない外国で一人旅する若い女の身のひきしめかたで、座席がきまるとすぐ窓外の景色を眺めはじめた。
南仏に向う列車の沿線には、夏の薄明りにつつまれておだやかに耕地がひろがった。耕地はゆたかに隅々まで愛情をもって耕作されている。伸子の列車が通過して行く地方には、ポプラが目立った。薄明《トワイ・ライト》の光線を細く鈍く反射させながら流れてゆく小川のふちに、数株のポプラの樹が並んで、年を経て瘤々の太くなっている幹から萌え出た勢のいい若枝が、灰色のまざった軽い浅緑の葉を繁らせている。列車の進行につれて、ゆるく旋回しながら、遠ざかってゆく野道の上に、ポプラ並木がつづいている。ところどころに散らばって在る農家は、灰色の外壁に厚い麦藁葺き屋根をもっていて、家畜小屋や荷車のおかれている内庭には、低い灰色の土の墻《かきね》で四角くかこまれている。それらの農家は、円い形の厚い藁ぶき屋根と土の墻《かきね》と、ポプラの樹のかげに、伝統的なフランス農民の生活をつつんでいるようだった。しかし最近の数年間にフランスの農業人口は減りつづけているということだった。政府は、金まわりのいい状態を保ちつづけるために、国内に不足な農業生産物を、やすく植民地からとりあげる政策をとりはじめた。それは植民地の住民から土地を失わせる結果になっていてフランスの共産党は、攻撃している。伸子は、パリで買えるデイリー・メイル紙からそういう記事をよんで間もなかった。
艷《つや》の消された水色と、灰色がかって爽やかな緑で調和している風景は、車窓から眺めている伸子にシャ※[#濁点付き片仮名
前へ
次へ
全437ページ中235ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング