Lの環をじっと見たとき、伸子の体をこわばらした感じと共通するところがある。
 けれどもそういう心もちについて伸子は素子と何も話さなかった。こんな話題をつっつきまわすことで、二人の感情とその表現の上に保たれて来ているつり合いが狂うことが、伸子としてこわかった。素子も、ただ物ずき心で陰惨なあの夜の女カフェーの光景を見ていたのでなかった証拠に、彼女としては珍しくそれについて皮肉めいたことも云わず冗談らしいことも云わなかった。二人とも、自分たちの生活は下水の上にわたされている一枚のふた[#「ふた」に傍点]の上に営まれていて、しかもそのふた[#「ふた」に傍点]はさまで強固でないことを知らされたわけだった。
 その晩も、伸子は、スーツが着よいか、着にくいかというだけの話にとどまって、素子が、上衣のうらのほつれを直しているのを見ていたが、やがて、
「あなた、ベルリンていうところを、どう思う?」
 素子にむかってきいた。
「おもしろいところと思う?」
「さあ、おもしろいっていうのとはちがうんじゃないか」
「わたしはドイツってところ、やっぱり気味がわるい」
 やっぱりというのは、この間うち幾度かベルリン国立美術館へ行ってドイツの絵を見たとき、伸子は、古い絵に描かれているヴィナスさえも蒼白く肩がすぼけて、腹のふくらんだ発育不全の女の姿で、冷たく魚のようで気味がわるい、とくりかえし云ったからだった。
「ベルリンの生活って、何だか矛盾に調和点がないみたいだわ」
 一方には、津山進治郎が日本も見ならうべきだという軍国主義があった。ベルリン市内の建築物はすべて五階。町並は一区画ごとに同じ様式に統一されていなければならなかった。だからベルリンでは綺麗な町ほど観兵式じみていた。やかましい規定をもった街路が、その幅なりに四方から集った中央に広場《プラッツ》があった。そこは十字路だが、几帳面に同じ幅の道が落ちあっただけの四角四面な広さに動的なふくらみがなくて、交通頻繁なところはせまくるしい感じだった。そこで、口を利かない気むずかしやのように、赤、橙、青の交通信号が絶えず瞬いている。ベルリンのレストランでは、献立につけてビールか葡萄酒をのまないものは、そのかわりとして一定の税のようなものを払わせられた。それも規則だった。
 伸子は、ベルリンの電車のなかで、席があっても立ったままでいる中学生をよく見かけた。それも規則であった。派手なバンドつきの丸形制帽をかぶって「春の目醒め」にでて来るような半ズボンから長い脛を出した中学生がうすい金髪のぼんのくぼを見せて、にきびのある血色のわるい顔を窓に向けて電車にのっているところを見ると、伸子はその少年たちの心の内にあるものが知りたかった。ベルリンでは長幼の序という形式がやかましい。しかし、ベルリンの劇や映画でセンセイションをおこしているのは、少年少女の犯罪を扱ったものだった。「三文オペラ」にしても、表現派の舞台に暗く速く展開されるギャングの世界のばくろだった。メイエルホリドは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の劇場のうちでは一番表現派に近い舞台で、「検察官」などを上演したが、メイエルホリドでは諷刺の形式として表現派がつかわれているようだった。ベルリンでの表現派は、物体も精神も、破壊をうけて倒れかかる刹那の錯雑した角度とその明暗という印象で、迫るのだった。
「グロスの漫画にしても、わたしには、ああいう肉感性のからんだグロテスクが疑問だわ。ね、そうじゃあない? 現代のいやらしさを描き出すことに、グロス自身がはまりこみすぎているわよ」
 日曜日の夕方になると、郊外から野草の花で飾られた自転車をつらねて一日のピクニックからベルリンの市内へかえって来る人々の大きい群があった。なかには若い夫婦が二人乗自転車のペダルをふんで、二人の間の籠に赤ん坊をのせてかえって来る一組がある。日にやけて歌いつかれたように笑ったりしゃべったりしながら野原の花をもって、軍用道路の上を陸続と明日の勤労のために自転車をそろえてかえって来る人々を見ると、伸子には、「三文オペラ」やグロスの漫画が、しんからそれらの人々の生活感情の底から生れているものと思えなかった。こういう人たちも、もちろん、ああいう芝居を見たり絵を見たりはしているだろう。そして、痛快がり、面白がりもしているかもしれない。けれども、それは気持の一部でのことで、あとのより多くの部分はどんなところに日常の流れをもっているのだろうか。
「赤い地区」ウェディング、ノイケルンはメーデー以来大きく浮びあがっているけれども、伸子や素子がベルリンでのこまかいありふれた日々の間にふれている場面のなかへまでは、新しく創られた生活の道がしみ出していなかった。それはそれがあるところにあるだけだった。
 ベルリンのプロ
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