−7−82]生活の歴史的な立体性は、伸子の全知識と感覚をめざましく活動させ、なお、もっともっとと、生きる感興を誘い出しているのであった。そういう熱中で、おのずと素子に迫ってゆく伸子を、素子は、絶えず自分から一定の距離に置こうとしているようだった。
 新聞の場合ばかりでなかった。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついて三四日したとき、どうかして素子の外套のカラーボタンがとれて失くなってしまった。素子は、
「ぶこちゃん、見物がてら買っといでよ」
と云った。
「あらァ、それは無理よ」
 伸子は冗談のように甘えて、首をふった。
「ボタンなんて言葉、ベルリッツの本に出ていなかったわ」
「そのために字引もって来たんじゃないか。ひいて御覧」
 そう云われるといちごんもなくて和露の字引をひいて、伸子はその字を見つけ出した。
「あったろう?」
「あったわ」
「それで、いいじゃないか。さ、行っといでよ」
 片仮名でボタンという字と茶色という字を書きつけた紙片をもって伸子は、トゥウェルスカヤの通りへ出た。そして、衣料品の販売店を見つけ出して、どうにか茶色の大ボタンを買って来た。ちょいとした食糧品の買いものにしろ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ではいつとはなし伸子のうけもちになった。
「丁度いいじゃないか、ぶこちゃんは、何にだって興味もってるんだから……」
 それは、たしかにそう云えたし、素子の教育法は、伸子の片ことに自信をつけた。素子のそういうしつけがなかったら、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついて、たった二週間めに、鉄工労働者のクラブで、たとえ十ことばかりにしろ、ものを云うことなどは出来なかったろう。|ВОКС《ヴオクス》から紹介されてそのクラブの集会に行ったとき、素子も伸子も、自分たちが演壇に立たされることなどを想像もしていなかった。ところが司会者が伸子たちを、その夜集っていた三百人ばかりの人々に紹介した。日本の婦人作家という言葉だけをききわけて、伸子が、
「あら、私たちのこと云っているんじゃない?」
と小声で素子にささやいた。
「…………」
 黙って肯《うなず》いたまま司会者の云うことを終りまできいていた素子は、
「挨拶する、って云ってる――ぶこ、おやり」
と云った。
「どうして!」
 当惑している伸子たちの前へ、司会者が来た。そして、
「どうぞ。みんな非常によろこんでいます」
 二人のどちらとも云わず、一寸腰をかがめた。素子は、はためにもわかるほど椅子の上に体を重くした。
「ぶこちゃん、何とかお云いよ」
「困った――何て? ね」
 押問答しているうちに、人々の間から元気のいい、催促するような拍手がおこった。
「ダワイ! ダワイ!」
 そういう声もする。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]についた翌日、馬方が馬をはげましていた陽気なかけ声をきくと、伸子は何を何と云っていいのか分らないままに、赤い布で飾られている演壇に上った。小さい伸子の体がかくれるように高い演説者のためのテーブルをよけて、演壇のはじっこまで出て行った。すぐ目の下から、ぎっしりと男女組合員のいろいろな顔が並んで、面白く珍しそうに、壇の上の伸子を見上げた。その空気が伸子を勇気づけた。伸子は、ひとこと、ひとこと区切って、
「みなさん」
と云った。
「わたくしは、たった二週間前に、日本から来たばかりです。わたしは、ロシア語が話せません」
 すかさずうしろの方から、響のいい年よりの男の声で、
「結構、話してるよ」
というものがあった。みんなが笑った。壇の上にいる伸子も思わずほほ笑んだ。そして、その先何と云っていいか分らず、しばらく考えていて、
「日本の進歩的な労働者は、あなたがたの生活を知りたいと思っています」
と云おうとした。しかし、それは伸子の文法の力に背負いきれず、伸子の云おうとしたことが、ききてに通じなかった。伸子はそれを感じて、
「わかりますか?」
と、みんなに向ってきいてみた。伸子の真下で第一列にいた中年の女が、すぐ首を横にふった。伸子は困ったが、こんどは単刀直入に、
「わたしは、あなたがたを、支持します」
と云った。さっきの年よりの男の声がまた響のいい声で答えた。
「こんどは分った!」
 そして、盛な拍手がおこった。
 これは伸子にとって思いがけない経験であった。同時に、伸子をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の心情により具体的に結びつけた出来ごとでもあった。
 敏感な素子は、学問として学んだロシア語の知識で、かえって、闊達さをしばられている状態だった。また、素子は二年なら二年という限られた時の間に、来ただけのことはあるという語学者としての収穫をためようともしているのだった。そういう緊張した素子の神経の
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