フだった。彼女の天才主義に疑問をもちつづけた伸子は、櫛のことから、芸術家としての川辺みさ子と自分のへだたりを埋めがたいものとして感じた。稚いながらも川辺みさ子に対しては伸子も一人の芸術にたずさわるものとしての主張をもちはじめていた。
川辺みさ子がウィーンへ行ってから半年たつかたたない頃だった。川辺みさ子は世界を征服すると大した勢で出かけたが、案外なんだそうだ、某というコンセルバトワールの教授に、これから三四年みっしり稽古したら|月光の曲《ムーンライトソナタ》ぐらいは一人前にひけるようになるだろうと云われた。そういう噂が伸子の耳にはいった。川辺みさ子の運指法がめちゃめちゃなんだそうだ、そういう話もつたわった。そういうひとこと、ひとことは伸子の全存在の内部へしたたりおちた。何も云わず伸子は自分の若いしなやかさを失っていない十本の指を目の前にひろげて長いあいだそれを眺めた。ピアノのキイの上においた両手の、手くびをさげて、指をあげて! と命じた川辺みさ子の声を思いおこしながら。
下宿の窓から鋪道へ身を投げて川辺みさ子がウィーンで自殺した。そのニュースが新聞へ出たのは、それから程ない時だった。伸子は、頬のひきつったような表情でその新聞を見つめ何にも云わず、息を吸いこんだ。吸いこんだその一つの息がはきどころないように胸がつまった。伸子は誰に向っても、がんこ[#「がんこ」に傍点]に口をつぐみつづけた。
数ヵ月たって川辺みさ子の遺骨が故国へ送り届けられた。それは単衣の季節だった。はかばかしい喪主もなくて、まばらに人の坐っている寺の本堂を読経の声とともに風が通った。遺骨は、錫製のスープ運びの罐のようなものに入れられていた。その罐に外国語でタイプされた小さな貼紙がついていた。京都に埋められる遺骨の一部を東京にのこすために分骨するとき、こころを入れてその日の世話を見ているたった一人の弟子であった土井和子の貴族的な美貌の上をいくたびも涙がころがって落ちた。――おかわいそうに。土井和子は真実こめてそうささやきながら骨をひろった。伸子は、土井和子の誠意にうたれ、謹んでかたわらに坐っていた。川辺みさ子その人に対して芸術家としての疑問や異種なものである感じは、死によっても伸子の心からは消されなかった。伸子はそのころ佃との生活紛糾のただなかにいて、自分にもひとにも鋭く暗い気分だった。
音楽という広いようで狭い世界では、ウィーンと日本との距離がはたで思うよりはるかに近いものであることを、こんどウィーンに来て見て伸子は実感した。当時川辺みさ子の評判やそれに対する期待、好奇心は、おそらく川辺みさ子そのひとが、ウィーンに現れるよりさきまわりして、彼女の登場の背景を準備していたことだろう。いま公使館の客間は五月の深い新緑に青ずんでしまっている。ここへはじめて川辺みさ子が日本服姿を現したとき、まだ傷《きずつ》けられず、うちのめされていない彼女の気魄はとうとうウィーンに来たという亢奮でどれほどたかまって表現されたか。その情景は伸子にも思い描かれるようだった。
三四年みっちり稽古すれば|月光の曲《ムーンライトソナタ》ぐらいは一人前に弾けるようになるだろうと、そのままをウィーンのその教授が云ったのだろうか。川辺みさ子は、日本に一つしかない官立音楽学校教授という肩書のまま遊学した。そして、そのベートーヴェンの演奏で世界をふるわせることができると信じてウィーンへ着いた。川辺みさ子が、そういう評価を与えられたとき、そしてその噂がおどろきに人々に顔を見合わさせながら野火のように彼女の周囲の日本人間にひろまって行くのを見たとき、十四歳で音楽修業をしている少女にとってそれは運指法の問題でありえたとしても川辺みさ子にとっては、生涯の暗転の瞬間であった。三十歳になっている伸子にはっきりそう理解された。自分の仕事というものによって工面した金で外国を女旅している伸子には川辺みさ子の経済問題も深刻にうかがわれた。川辺みさ子の兄は、両親の亡いあとむしろ彼女の経済力で支えられているらしかった。川辺みさ子はおそらく一定の旅費をもってただけだったろう。あとはウィーンをはじめ各地の演奏旅行で収入を得ながら、より高い勉強もつづけようと計画していたにちがいなかった。演奏旅行で収入を得ながらウィーンにくらすという生活と、指の練習からやりなおしをはじめなければならない三十をこした一人の日本婦人としてのウィーンでの朝夕。――日本服の細い肩にゆるやかに束ねられた束髪のほつれ毛を乱して、寂しいウィーンの下宿の窓べりに立った川辺みさ子が、自分の脚の不自由さを音楽家として破局的な時期にまったく致命的な意味をもって自覚した瞬間を想うと、伸子はあわれに堪えがたかった。川辺みさ子のひどい跛が雄々しい優美さをもってあらわれる
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