ト来ると、聴衆は熱烈に拍手した。美しく燃え緊張した若い顔を聴衆にむけ、優しい左肩をはげしく上下に波立てながら、左手を紋服の左の膝頭につっかうようにしてピアノに向って歩いて来る川辺みさ子の姿には、美しい悲愴さがあった。その雰囲気に狂い咲いた花のようなロマンティシズムが匂った。彼女の演奏は情熱的であるということで特徴づけられていた。うす紫縮緬の肩にも模様のおかれている礼装の袂をひるがえしてベートーヴェンのコンチェルトが弾かれ、熱中が加わるにつれて、川辺みさ子のゆるやかに結ばれた束髪からは櫛がとんで舞台におちた。コンチェルトはその時分誰の場合でもオーケストラはなしで、ピアノだけで演奏されていた。
 伸子に、二人のあい弟子があった。二人とも伸子が通っていた女学校の上級生であり、その人々は、伸子よりずっと上達していた。伸子は、ピアノに向って弾いているとき、よくその横についている川辺みさ子から、不意に手首のところをぐいとおしつけられて、急につぶされた手のひらの下でいくつものキイの音をいちどきに鳴らしてしまうことがあった。川辺みさ子の弾きかたは、キイの上においた両手の、手くびはいつもさげて十の指をキイと直角に高くあげて弾らす方法だった。それは、どこかに無理があってむずかしかった。われ知らず弾いていると、いつの間にか手くびは動く腕から自然な高さにもどってしまって、川辺みさ子の二本の指さきで――いつもそれはきまって彼女の人さし指と中指とであったが、ぐいときびしく低められるのだった。
 伸子が、一週に二度ずつ通っていたピアノの稽古をやめてしまったのは、偶然な動機だった。伸子が十六になる前の冬、川辺みさ子は指を、ひょうそう[#「ひょうそう」に傍点]で痛めた。激しい練習のために、ひょうそう[#「ひょうそう」に傍点]になったのだそうだった。稽古は四ヵ月休みにされた。その四ヵ月がすぎて、川辺みさ子が削がれて尖《さき》の細くなった左の人さし指をもって病院から帰って来たとき、伸子は、それまでピアノの前ですごしていた時間の三分の二を机の前にいるようになっていた。音楽と歌にだけ様々な少女の気もちの表現を托していた伸子は、川辺みさ子がひょうそう[#「ひょうそう」に傍点]で指をいためた間に、急速に小説にひかれて行った。その真似をして書く面白さにとらわれた。メレジュコフスキーが、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を描いた小説だの、ワイルドの「サロメ」、ダヌンチオの「死の勝利」などが、伸子をひきつけた。そこには恋愛があった。肉体の動きとして表現された情熱と、声として、行為としての思想とがあった。十六歳の伸子は、愛し、憎み、思考し、はげしくもつれあう人生を生のままに目で見、耳できき、ふれられる体の表現として、とらえられている小説にひかれた。
 こうして、伸子は川辺みさ子から離れた。離れたと云ってもピアノの稽古をやめたというだけであったが。――伸子はその後もかかさないで彼女の演奏をきいた。
 伸子が女学校を終ったばかりの早春、川辺みさ子の身の上に思いがけない災難がおこった。或る晩、友人のところから帰りがけ、赤坂見附のところで川辺みさ子は自動車に轢《ひ》かれて重傷を負った。夜ふけの奇禍だったのと、本人が昏倒したままであるのとで、どこの誰とも判明しないままに築地の林病院に運びこまれた。その婦人がピアニスト川辺みさ子であると知れたとき、世間はおどろいた。川辺みさ子の負傷は頭部だった。脳底骨がいためられて重態だった。伸子は、林病院のうすぐらくて薬のにおう病室の控の間で、小声にひそひそと告げられる川辺みさ子の病状に戦慄した。
 その年の秋もふけてから、川辺みさ子は病院から自宅へかえって来た。伸子は見舞に行った。ピアノのおいてある、そこで伸子が教則本をひきはじめた洋間に、手軽なベッドをおいて、川辺みさ子は、伸子がその部屋に入って行ったときは、うしろのカーテンをひいて、ほの暗くしたなかに横たわっていた。
「おお、伸子はん!」
 川辺みさ子は、おお! という外国風な叫びと京都弁とをまぜて、ベッドの上におき直った。
「よう来てくれました!」
 つよくつよく伸子の手をとって握りしめた。
「これからやりますよ、わたしは生れかわったのやもの! なあ、そうやろう?」
 伸子が口をさしはさむ間を与えず、川辺みさ子は話しつづけた。伸子は、暫く話をきいているうちに、せつなくて体から汗がにじみ出した。川辺みさ子は、脳のどこかに負傷の影響を蒙ったと思わずにいられなかった。早口に、だまっていられないように勢づいて話す川辺みさ子の言葉は、明瞭をかいていた。そして、これからの自分こそほんとの天才を発揮するのだとくりかえし川辺みさ子が云うとき、伸子は滲み出た血がこったような涙を目の中に浮べた。それをきくのはこわかった。そ
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