ナ、スリップの上にスカートだけをつけた立ち姿の素子が、こわい眼つきと声とで、
「出してくれ!」
 伸子に命令した。
「わたしが、出さなかったはずは絶対にないんだ。ほかに着るものがないのに、忘れる奴があるもんか。ぶこの責任だ。つめたのは君だもの。――どっからでも、出してくれ――」
 どっからでも出せと云ったって、伸子と素子と二人で、そのたった一つのスーツ・ケースしかもっていないのに。――
「無理よ。そんなこと」
 伸子は、自分のベッドの上で、ひっくりかえしたスーツ・ケースのなかみをまたもとどおりにしまいながら云った。
「二人分を一つに入れているのがわるかったんだわ」
「出してくれ!」
 素子は腹だちで顎のあたりがねじれたような顔つきになり、寝台に近づいて来て、その上で片づけものをしている伸子の腕を服の上からぎゅっとつかんだ。
「あのブラウスがなくて何を着たらいいんだ」
「…………」
 いっしょにつめるように素子が揃えて出したすべてのものを、スーツ・ケースに入れたとしか伸子には思えないのだった。伸子は途方にくれた。
「もしかしたら、衣裳ダンスにかけっぱなしで来たんじゃないのかしら――着て来ようとでも思って」
「そんなことないったら!」
 痛いように伸子の腕をつかんでゆすぶりながら、
「自分のものは何を忘れて来た? え? 何一つ忘れたものなんかないじゃないか。わたしだけ、よごれくさったものを着て歩かなくちゃならないなんて!」
 くいつくように睨んでそういう素子の顔に赤みがさして来て眼のなかに涙がわいた。
「わたしのことなんかどうでもいいと思っている証拠だ。いいよ! いつまでだってこうしてここにいてやるから!」
 あのとき、ウィーンの公使館からきいて来たと云って、黒川隆三という青年が二人を訪ねて来なかったら、素子はほんとに一日ホテルの寝室から出なかったかもしれなかった。
 二つのベッドの間のテーブルの上で電話のベルが鳴ったとき、素子は、そっちを見むきもしないで、伸子の腕をつかんでいた。自然、伸子もその場から動けず、答えてのない電話のベルは、重いカーテンで朝の光を遮られた寝室のなかで、三四へんけたたましく鳴った。やがてベルがやんだ。しばらくして、ドアをノックするものがあった。それが、黒い髪の毛に黒い背広を着た、若いのに世なれた調子の黒川隆三だった。
「やっぱり、おいででしたね、下で、電話に出る方はないが鍵が来ていないっていうもんですから。――いきなりお邪魔しました」
 黒川という客の来たことが素子にとっても局面打開のきっかけだった。仕方なくきのう着た白いブラウスを着た素子と伸子とは互同士では口をきかず、しかし黒川に対してはどっちもあたりまえに応対しながら、寝室のとなりの室で朝食をすました。やがて三人でホテルを出、伸子たちは約束のある服飾店へ、黒川は次に会う日どりをきめてわかれた。黒川は、二週間近くウィーンに滞在する伸子と素子とのために、下宿《パンシオン》をさがすことをすすめ、その仕事をひきうけた。ホテルを出て、明るい街頭を行きながら、伸子はそれとなく並んで歩いている素子のブラウスに目をやった。もういく度か洗われている素子の白絹のブラウスは、きついその純白さをおだやかな象牙色にくもらしているけれども、細いピンタックでかざられた胸のあたりにも、アイロンのきいているカラーにも、よごれらしいものは一つもなかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から来れば、はじめてヨーロッパの都会らしいウィーンの通りを歩きながら、伸子は素子のブラウスがみっともないようには着古されていないことに安心した。同時に、ウィーンまで来たのに、まだ駒沢のころのように、或はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ぐらしのあるときに素子がそうであったように自分に対してこじれからまる素子の感情が伸子に苦しかった。
 これからの旅の先々では片言ながらどうしても伸子の英語で用を足してゆかなければならなかった。素子が自分の言葉の通用しないもどかしさと、伸子のうかつさとに癇をたかぶらしてきっかけがありさえすれば又けさのような場面が起るのかと思うと、伸子はその鞣細工品で、自分のために気の利いた小鞄を選びながら自分たちの旅行について銷沈した気分になるのだった。

 ウィーン風にいれられたコーヒーには、ふわふわと泡だってつめたいクリームが熱く芳しいコーヒーの上にのっている。その芳しいあつさと軽くとけるクリームの舌ざわりとをあんまりかきまぜず口にふくむ美味さが、特色だった。
 そういう飲みようを知らない伸子と素子とは、クリームをすっかりかきまわしたコーヒーの茶碗を前において、とあるカフェーにかけていた。空いている椅子の上に、買って来た、暗緑色とココア色の二つの婦人用カバンがおいて
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