ト、がっかりした気持で、おそい昼飯にホテルへ戻った。そうやって歩いて来てみると、ワルシャワのステーションから伸子たちをのせて来た馬車が、雨の中を街まで出て大まわりして来たのがわかった。ステーションから灌木の茂みの見える小公園を直線にぬけると、ついそこがホテル前の広場だった。
「これだからいやんなっちゃう! あの爺、あらかた街をひとまわりして来てやがる」
「いいじゃないの。どうせ街見物《サイト・シーイング》なんだもの」
 いちいち腹を立てていたら、これから言葉もわからない国々を旅行するのに、たまったものではない、と伸子は思った。
「抜けめない旅行をしようなんかと思って、気をはるの、わたしいや。どうせ土地の連中にかないっこないんだもの」
「ぶこはいい気なもんだ。――おかげでわたし一人がけちけちしたり気をもんだりしてなけりゃならない」

 ひる休みのあと、伸子と素子とはもう一度ホテルを出た。こんどは本式にワルシャワの街見物のために。二人はまたステーション前から馬車をやとった。伸子たちがそれにのってウィーンへ向う列車はその晩の七時すぎにワルシャワを出発する予定だった。
 ワルシャワの辻馬車が街見物をさせてまわる個所は大体きまっているらしく、毛並のわるい栗毛馬にひかれた伸子たちの馬車はいくつかの町をぬけて、次第に道はばの狭い穢い通りへはいって行った。やがて、ごろた石じきの横丁のようなところへさしかかった。馬車の上から手がとどきそうに迫った両側の家々の窓に、あらゆる種類の洗濯物が干してある。それらの洗濯物は、そうやってぬれて綱にはられているからこそ洗濯ものとよばれるけれど、どれもみんな襤褸《ぼろ》ばかりだった。上半身裸体のようななりをした女が、その窓際で何かしているのが見える。貧相な荒物店。ごたごたした錠前や古時計などが並んでいる店があって、やっと人のすれちがえる歩道の上で子供たちがかたまって遊んでいた。こちらを向いてしゃがんでいる女の子の体がむき出しに馬車にのって通りすぎてゆく伸子たちの目にふれた。子供たちの体も服も不公平なしによごれていた。どっか近くの窓のなかから、ドイツ語に似たユダヤ語で、男と女が早口に云い合いする声が起った。それはじきやんだ。狭い穢いその町すじ全体に貧困と人口過剰と漠然として絶間ない不安がのしかかっているようで、馬の足なみにまかせてごろた石の上に蹄の音をたてながら通ってゆく伸子たちの馬車は大きな塵芥すて場のわきにあるような一種のにおいにつつまれた。そこは、ワルシャワの旧市街とよばれ、昔からユダヤ人の住んでいる一廓だった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ではユダヤ劇場があり、トゥウェルスカヤの角から芸術座へ曲るところに大きい清潔なユダヤ料理店があった。伸子と素子とは、ときどきそこで一風かわった魚料理だの揚ものだのをたべた。そこの店では、いつもこざっぱりとした身じまいの女が給仕した。
 ワルシャワのここではその不潔で古い町すじに密集して建っている建物のすき間というすき間に、その内部にぎっしりつまって生きている不幸な老若子供よりもっとどっさりの南京虫が棲息していることはたしかだった。幌をあげた馬車の上から、通りの左右に惨めさを眺めて行く伸子の顔に苦しく悲しい色が濃くなった。現代になっても、こんなに根ぶかく、血なまぐさくユダヤに対する偏見がのこっていることは、ヨーロッパ文明の暗さとしか伸子に思えなかった。東京に生れて東京で育った伸子は、日本の地方の特殊部落に対する偏見も実感として知っていなかった。これまでポーランドが自分の国をあんなに分割され、自身の悲劇と屈辱の歴史をもって来たのに、そのなかでなお絶えず侮蔑するもの、人づきあいしないもの、虐殺の対象としてユダヤの人々をもって来ていることを思うと、伸子は苦しく、おそろしかった。関東の大震災のとき、東京そのほかで虐殺された朝鮮人の屍の写真を見たことがあった。虐殺という連想から伸子は馬車の上で計らずその記憶をよびおこした。
 その旧市街《スタールイ・ゴーロド》にも、きょうがワルシャワのメーデーだという気配はちっともなかった。おそらくはきのうと同じような貧しさ。不潔さ。溝ぶちに群れている子供たちのあしたもそうであろう穢さと虐げられた民の子供らの変なおとなしさ。
 伸子と素子とをのせた馬車は、葬式のような馬の足どりで旧市街を通過した。一つの門のようなところをぬけると御者が、自分もほっとしたように御者台の上へ坐り直して、ロシア語で云った。
「さて、こんどは新市街へ行きましょう」
「あっちはきれいです。立派な公園もあります」
 ついでに自分も一見物というような口調だった。
 なるほど暫くすると、伸子たちの馬車は、その馬車のいかにも駅前の客待ちらしいうすぎたなさが周囲から目立つ
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