ナ来る赤旗が見えた。伸子のところから眺められる赤旗は十本たらずの数だった。伸子は赤旗が目に入ったと同時に、異様な衝撃を感じた。赤旗は黙って進んで来る。メーデーの歌の声一つそっちからきこえて来ない。赤旗がこちらに向って前進して来る歩調はかなり速かった。歌声もなく、十本足らずの赤旗はどこか悲しそうに、しかしかたく決心している者のようにいくらか旗頭を前方へ傾け、執拗に一直線に進んで来る。のび上っている伸子は思わず片方の手袋をはめている手をこぶし[#「こぶし」に傍点]に握りしめた。メーデーの日だのに、メーデーの歌もうたわず、ほんの少数でかたまって広場に向ってつめよせて来る赤旗の下の人々の心もちはどんなだろう。突然、先頭に進んでいた赤旗が高く揺れたと思うと、行進は駈足にうつったらしく、それと一緒に急調子のインターナショナルがわきおこった。はげしい調子のインターナショナルの歌声の上に赤旗が広場の間近まで来たとき、カーキ色の連中を最前列にして伸子たちの前方をふさいでいた群衆の垣がくずれ立った。インターナショナルがとぎれた。入りまじっておしつけられた怒号が、伸子に見えない前方からおこった。もみ合いがはじまった。十本足らずの赤旗は高く低くごたごたと怒声の上にゆれていたが、そのうち赤旗を奪おうとしたものがあるらしくて、急に殺気だって圧力をました人なだれが伸子の立っているところまでおしかえして来た。行進はカーキ色連中が棒と棒とでこしらえたバリケードを破って、なお前進しようとしているのだった。人なだれは渦のように広場へひろがって、伸子と素子とははぐれまいとして手をつなぎあったまま小さな日本の女の体をぐいぐいおしたくられ、到頭行進のもみ合っている町口からずっとひっこんだカフェーよりまでつめられてしまった。そのときパン。パン。と高くあたりに響きながら間をおいて二つ、ピストルかと思う音がした。
「なかへ入っちまいましょう、よ!」
伸子と素子とは、むしろよろけこんだという姿勢でカフェーの表ドアをおして入った。そして、そこだけに空席のあったカフェーの大きなショウ・ウィンドウ前のテーブルについた。広場の混乱はショウ・ウィンドウ越しのついそこにあった。それどころか、今にもひろいショウ・ウィンドウのガラスがわられるかと思うほど群集の肩や背中がおしつけられて来る。
そういう戸外の光景をガラス一枚へだてて見ているカフェー内部のおちつきは、まったく対照的なものとして伸子に感じられた。そこにいて外を見ているのは伸子と素子ばかりではなかった。しっかりした体格の背広姿に無帽の男が三四人、それぞれ自分の前のテーブルの上にコーヒー茶碗をおいてかけている。或るものは、外が騒がしくなったから読むのをやめたという風に、ひろげたままの新聞を膝の上へのせて戸外を見ている。一人の男は、椅子の上で体をずらし、ひろげた両股の間へカフェーの小テーブルをはさみこむ行儀のわるい恰好で、ズボンのポケットへ両手をつっこんだまま上眼づかいにショウ・ウィンドウの外でこねかえしている人波を視ている。
内心こわくてそこにいる伸子にまわりの男たちの奇妙に動じないような様子はどこやら不自然に感じられた。もしピストルの撃ち合いでもはじまったら、カフェーの内部とは云っても、ショウ・ウィンドウ一重へだてただけで広場に向って自分たちをさらしているその位置は安全でなかった。そう云っても、手狭なそのカフェーの内部では、ほかに移る奥まった席もなかった。伸子たちのかけているすぐうしろがカウンターで、ワイシャツにチョッキ姿の太ったおやじ[#「おやじ」に傍点]がカウンターのうしろに突立って、腕組みしながら表ドア越しに広場を見ている。
それをきいて伸子がカフェーへにげこんだピストルかと思う音は、あの二つぎりでもうしなかった。入口でカーキ色外套の連中に遮えぎられたメーデーの行進は遂に広場へ入って来ることができなかった。一本の赤旗も広場に釘づけされている伸子たちの視野の内にあらわれなかった。段々、目に立たない速さで広場の群集のもみ合いも下火になりはじめた。伸子はそのときになって、その広場につめかけた群集はほとんど男ばかりで、女は見当らないのに気がついた。そして、陰気な広場へ数百人あつまっている男ばかりのその群集が、ワルシャワ市民のどういう層に属す人々なのかも伸子にわからなかった。メーデーの行進とその赤旗とを広場へ導き入れたいと思って来て見ていた人々なのか、それとも、もしも赤旗が広場へ入ったら、と事あれかしの連中が群集の大部分を占めているのか。――
群集がまばらになってゆくにつれて、カフェーのショウ・ウィンドウの外でマッチをすりタバコに火をつけたりしている男の背広が、失業者らしくすりきれているのが伸子の目にとまった。まるでルンペンらしく
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