「て来る休暇をたのしみにしている様子は、感動的だった。彼女は相かわらず勤勉に勤務し、必要な任務をすべて果し、そういう勤務ぶりで来ようとしている二ヵ月の有給休暇をまったく自分にふさわしいものにしようとしているようだった。ナターシャは毎朝おきると、さあ、あともう何日という風に若い夫と数えて暦の紙をめくるらしく、うけもち患者の一人である伸子にことさら言う必要もない自分たちの計画のたのしさが、勤務中彼女のはたん[#「はたん」に傍点]杏の頬にこぼれて感じとられることがあった。
「ナターシャ、あなたを見ていると、わたしまで何かいいことがありそうなきもちになることよ」
 伸子はほんとうにそう感じるのだった。彼女の見とおしをもった生きかたの単純さ。よろこびの曇りなさ。このナターシャが赤坊をもった姿を想像し、そのかたわらにバリトーンの歌手である彼女の若い夫を居させると、そこに若いというばかりでなくまるで新しい内容での家族というものの肖像が思われた。目的のわからない熱烈さと、とりとめなく錯雑した感情のくるめきに支配されつつ日が日に重ねられてゆく動坂の家族生活と、それとをくらべるとなんというちがいかただろう。ナターシャの新鮮なトマトの実のような「家族」をおもうと、伸子は、動坂の家族生活からうける複雑で、手のつけようのないごたごたした物思いから慰められた。保がああして死んだとき、遂に保を生かさなかった環境とし、自分をも息づまらせる環境とし、伸子は動坂のうちの生活と自分の生きかたとの間に、もう決して埋められることのない距離を感じた。そして、ソヴェト社会に向いてくっささった自分を感じ、その感じにつかまって生活して来た。伸子の心の中にわれめをつくっているその精神の距《へだ》たりや動坂のくらしに対する否定の感情はそのままでありながら、娘としてことわりきれないいきさつや肉親として思いやらずにいられない事情が一方に追っかけて来て、伸子はこの間までの苦労なさから掻きおこされてしまった。伸子は、それにつけてもナターシャのよろこばしさを曇りなくかばいたいように言った。
「ナターシャ、休暇をたっぷりたのしみなさいね」
 すると、ナターシャはにっこりして伸子を見、
「散歩できるんです」
とひとこと言った。散歩できるんです――これこそ休暇のたのしさの根本という風に彼女は言った。思えば、そうなはずだった。看護婦として昼間いっぱい勤務し、夜はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学医科のラブ・ファクに通ってきりつめた時の間でくらしているナターシャにとって、散歩ができるということ、昼間ぶらぶら歩きの時がもてるということは、そのほかにも可能ないろんなたのしさがもりこめる自由な時間、解放と休息の何より確実な証左であるわけだった。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゅうの樹という樹、建物の樋《とい》という樋が三月の雪どけ水で陽気に濡れかがやき、一日ごとに低くなる雪だまりや水たまりの上に虹が落ちているような雪どけのまばゆさは、伸子の病室にもはいって来た。春のざわめきはおなかの大きいナターシャのうれしそうな様子と調和し、伸子のもうじき退院できるという期待の明るさに調和した。
 家族の騒動や、刺戟的な多計代の激情。支離滅裂な論議ずきを思うと苦しかったが、それでもモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の満一ヵ年の後フランスが見られることや、うちの者たちに会えることは伸子にとっても負担だとばかり言うのはうそだった。伸子は或る日思い立って、日本のうちあてに三通の手紙を書いた。父母あてに、和一郎夫婦あてに、それからあしかけ三年見ないうちに十五歳の少女になっているはずの妹のつや子にあてて。荷物を最少限にすること。母は身についた和服で旅行するように、どうせ多計代はバスや電車にのることはないのだから。足袋は少し多いめに、草履は三足ぐらいもって来るように。パラパラ雨の用意をもつこと――コートなり何なり。なんと言っても和一郎と小枝に対して一番具体的に旅行の収穫を期待する感情が伸子にあった。若い建築家として和一郎がただぼんやり御漫遊[#「御漫遊」に傍点]の気分で来ないように、専門の立場から何か一つのテーマをもって見て歩く用意をするようにというのが、手紙の眼目だった。つや子へ伸子は、女学校の下級生の受けもち先生のように書いた。自分の身のまわりのことは母や小枝をたよりにしないで荷づくりもできるようにしなければいけない、と。あなたは、これまでいつも何をするんだって、誰かに手つだってもらってばかりして来たんですものね、と。
 もう一週間ばかりで伸子が退院するときまったころ、噂されていた泰造の友人の吉沢博士がジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の国際連盟の会議へ出席するためにシベリア経
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