iターシャは姙娠七ヵ月になろうとしているところだった。
 額ぎわに汗ばんで来た伸子は、汗のつぶが流れるようになるまで漬っていて、ナターシャの腕につかまりながら湯ぶねの中に立ちあがった。伸子が、左脚に重心をおいて、ナターシャの腕につかまり、まだ足のつけない右脇をかばって立っているうちに、ナターシャはタオルで伸子のぬれて湯気のたつ体をつつみ、きつくこすった。自分も片手をうごかして拭きながら伸子がきいた。
「ナターシャ、数学の課題、どうなって? すんだ?」
 その日ナターシャは午前の休息時間じゅう、微分の宿題ととっくんでいた。ナターシャの踵へ重みのかかった歩き姿をちっとも見かけないので、伸子が年とった雑仕婦の一人に、
「ナターシャ、きょうは休んだの」ときいたら、
「来ていますよ。――彼女は一生懸命数学の勉強しているんです」
 そして、片手のひらを皺のよった頬にあてて同情するように頭をふった。
「課題は彼女にとってやさしくないんです」
 ナターシャは第二モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の医科のラブ・ファク(労働者科)の学生なのだった。
 伸子の頭から新しい病衣を着せかけながらナターシャは、
「どうやらこうやらね」
と答えた。
「できないのが一題あるけれど、それはかまわないんです」
「あなたお風呂へ入ってからいつも学校へ行くけれど、それで風邪をひかないの」
「いいえ。お風呂はわたしのためにいいんです」
 伸子の治療のため、毎日午後湯がわかされるようになってから姙娠七ヵ月の彼女は医局から許可されて、伸子のあと自分も入浴するようになった。それから正餐をすませ、彼女は晩の六時から十一時まで大学へ通って勉強している。
 湯あがりの伸子がすき間風にあたらないように、ショールと毛布ですっかりくるんで、ナターシャは車椅子を押し、病室へもどった。いない間に病室のドアのすきから病棟に飼われている猫が入って来ていた。猫は枕もとのテーブルの上へのり、おとなしく、しかも熱中した様子で、テーブルの上にあるアスパラガスに似た鉢植の房々した青い葉っぱを引っぱってはたべている。伸子は猫にかまわず器用に車椅子からベッドへ移って横たわった。
「ああ、いい気持。ナターシャ、こんどはあなたの番よ」
「ハラショー」
 入院して一ヵ月以上たったこのごろ伸子とナターシャとの間には、看護婦と患者とのありふれた交渉より、もうすこし友情に近い感情がうまれていた。その感情は、ナターシャの側ではごく淡白なもので、むしろ伸子のこころもちが、身重なナターシャの一挙一動に関心をそそられている状態だった。伸子のその感情は、はじめまるで逆なきっかけから成長した。
 入院して五日ばかりたったとき、フロムゴリド教授が、伸子に治療として毎日の入浴を命じた。その午後、車椅子をころがして、
「お風呂へ行きましょう」
と病室へ入って来たのが、いま思えばナターシャであった。痛さでくたびれ、ぼんやりしている伸子の視線に、入ってきた赤い頬っぺたの若い看護婦のおなかがかなり大きいのがうつった。伸子はその看護婦に扶けられて、どうやらベッドから両脚をおろした。が、痛みでどこもかしこも強《こわ》ばっている体ではどうしてもベッドから車椅子に乗りうつる一つ二つの身ごなしがままにならなかった。身重の若い看護婦は赤い頬をなお赤くして、両腕で動けない伸子の体を車椅子へひっぱり乗せようとするが、二人ともが似たりよったりの背たけしかなく、その二人が、めいめいの体にいたわらなければならないところをもっているので、伸子と看護婦とは、からまり合ってよちよちするばかりだった。二つの体が不器用にぶつかってよろけるたびに、車椅子は正直その輪の上でころがって、あとじさりする。伸子は二度三度やってみて、こらえられない痛さから癇をたてた。
「やめましょう」
 泣き声をだした。
「わたしたち、どっちの力もたりないんだもの」
 翌朝助手のボリスが回診に来て、入浴の工合をきいたとき、伸子は、
「看護婦は来てくれましたけれど、彼女は姙娠しているんです。彼女のためにすけてがいるぐらいなのに、どうして、動けない私が運べるでしょう」
 そういう体の看護婦に力仕事を命じたことは不当であるという不満を、はっきり声にあらわして云った。伸子のベッドに向って腰かけているボリスのよこに、当の看護婦が伸子のカルテをもって立っていた。またふたたび、伸子にとってもその看護婦にとっても不便なくりかえしが起らないようにと、伸子はその看護婦がそこにいるのを知って云ったのだった。
 背が高くて、薄色の髪と瞳をもっているボリスは黙って伸子の訴えをきいていたが、訴えそのものには答えず、診察を終ると平静な口調で、
「まだ動くのには早すぎたかもしれないですね。まあ、ゆっくりやりましょう」

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