ニいう執拗な欲求の形でしか伸子の答えはないのだった。
そういうわけで、この冬、伸子はもっぱらトレチャコフスキーやモローゾフスキーを見るにしても――
「どうして、そのノヴォデビーチェ、ことわっちゃいけないの?」
それは自然な伸子としての疑問だった。
「そんなこと今更できやしないよ。だって、あの連中」
と素子はクワルティーラの番号だけはっきり覚えていて、名を忘れた化学航空組合員夫婦のことを云った。
「わたしがはじめての借りてなんだもの。そのためにデスクとディヴァンを買って入れたんだし、こっちだってそれに対して前払いしたんだから、解約なんてばかばかしいことはできないよ」
解約すれば一ヵ月の前金は先方にわたすことになっているのだった。
アストージェンカからノヴォデビーチェ行きの電車にのりながら、伸子は、そういう素子らしい考えかたを滑稽なように、また、いやなように感じた。自分が淋しくていにくいところへ、もっと淋しがりの伸子をやる。前金を無駄するのがばからしいという気持から――。しかし、伸子が行って見る気になったのにはどっちみちどこかへ室がいるのだからという実際の判断とともに、その淋しさというものへの彼女自身のこわいものみたさもあるのだった。
グーセフというノヴォデビーチェの夫婦には四つばかりの男の子があった。朝、八時すぎに夫婦がそろって出勤してゆく。暫くして、田舎出の女中が、男の子を新開町の中にある托児所へつれて行ってもどって来る。それから伸子が食堂で朝の茶をのみ、午後四時に、また一人で食堂の電燈の下で正餐をたべた。九時に、又同じようにして夜の茶をのむ。毎晩きまってそのあとへ、夫婦がつれだって、ときには集会の討論のつづきの高声でしゃべりながら、帰って来た。グーセフの家では夫婦とも勤めさきで正餐をたべた。
保健婦であるグーセフの細君は、ルイバコフの細君のように、自分の髪にマルセル・ウェーヴをかけて、女中のニューラに絶えず用をあてがうような趣味をもっていなかった。托児所へ送り迎えをしなければならない小さな子供がいるから女中もおいているという風なグーセフ夫婦は、ひる間女中の時間がすっかりあいているそのことから下宿人をおくことを考えついたらしかった。夫婦は下宿人に対してきわめて淡泊だった。したがって女中の料理の腕についても無関心だった。伸子がどんなに焦げたカツレツを毎日たべ、夜の茶にはどんなにわるい脂でかきまぜた魚とキャベジと人参のつめたい酸づけをたべているかということについても無頓着だった。
二三日暮らすうちに、グーセフの家のそういう無頓着さは、ほんとにただ無頓着だというだけのもので、むしろ自然な状態なのだということが伸子に会得された。小型なディヴァンも、室の大きさにくらべて異様にちょこんとしたデスクも、グーセフ夫婦にすれば単純に素子と伸子の体の大きさを念頭においてそれらの家具を選んだというのにすぎないらしかった。事実、その極端に小さく見えるディヴァンに伸子がシーツと毛布とをひろげて寝てみれば、それはゆっくりしないまでもさしつかえなく寝床の役に立つのだった。
グーセフ夫婦は足にあわせて靴の寸法でもはかるように、自分たちからみればずっと小柄な新しい下宿人の寸法に合わせて、清潔な新しい二つの家具を買い入れた。その小型なディヴァンと小型なデスクとが、がらんとしたひろい室にどんな効果をもたらすかということについて夫婦は考えなかった。そこに伸子にとっての苦しいはめがあった。
むきだしの二つの窓のそとには、十二月下旬の雪が降りしきるノヴォデビーチェのはてしない夜がある。がらんとした室の中に一点きれいな緑色をきらめかせている灯の下で、伸子はデスクに向っていた。せめてデスクにおくスタンドのかさでも気に入ったのにしておちつこうと、伸子はそのシェードをきょうモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の繁栄街であるクズネツキー橋の店から買って来たのだった。伸子は例によって水色不二絹のスモックを着て、絹のうち紐を胸の前にさげている。伸子はこの室へ移って来てから毎日数時間デスクに向ってかけて、そのセメントのにおいとがらんとした室の雰囲気に自分をなじませようと練習しているのだった。
いまも外では雪の降っている夜の窓に向って、デスクにかけている伸子には、目の前の窓ガラスにうつる緑の灯かげと、その灯かげにてらされて映っている自分の水色のスモックの一部分ばかりが気になった。デスクの上に本と手帳とがひらかれていた。が、それには手がつかない。麻痺するような淋しさだった。なぜこうここは寂しいんだろう。あんまりセメントくさいからだろうか。伸子はしびれるような単調な淋しさにかこまれながらあやしんだ。部屋がガランとしているということが、こんなはげしい淋しさの原因と
前へ
次へ
全437ページ中150ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング