「ニスがなめらかにかけられていて、伸子はなじみにくかった。
 部屋へかえって、伸子は素子に、
「わたしルイバコフの方がすきだわ」
と、ふくれた顔で云った。
「ここの連中は、ミャーフキー(二等車)にしか乗らないときめてるようなんだもの」
 素子は、
「まあいいさ」
と、伸子の不満にとりあわず、それぞれに風のある家の仕くみを興がるようだった。
「ここじゃ、アニュータが実質上の主婦だね。あの太った婆さんで全体がもててる感じだ」
 おそく生れたらしい娘にかかりきりになっている細君にかわってソコーリスキーの家庭の軸がアニュータのおかげで廻転している。それが一度の正餐でもわかった。アニュータの給仕ぶりは自信と権威とにみちていて、いかにも、さあ、みなさんあがって下さい。いかがです? という調子だった。アニュータは、主人の地位をほこっていて、そこで権威を与えられている自分自身に満足している様子だった。
 二日目の午後、伸子たちは下町の国際出版所へ出かけ、正餐にやっと間に合う時刻に帰って来た。その日は朝から初雪だった。二人が外套についた雪をはらっているところへ、ノックといっしょにドアがあいた。そして、耳飾りをした細君の顔があらわれた。
「入ってもようござんすか?」
 いいともわるいともいうひまもなく細君は伸子たちの狭い室へ体を入れて、自分のうしろでドアをしめた。細君は、体の前で両手を握りあわすような身ぶりをした。握りあわせた手をよじるようにしながら、
「きいて下さい」
 奇妙な赤まだらの浮いたようになった顔で伸子たちに云った。
「さっき、わたしの夫から電話がかかりまして、非常に思いがけないことが起って、どうしてもこの室が必要になったんです」
 あんまり突然で意味がわからないのと、勝手なのとで素子と伸子とは傷つけられた表情になった。だまって、デスクの前の椅子に腰をおろした素子に追いすがるように、細君は一歩前へ出て、また、
「スルーシャイチェ(きいて下さい)」
 圧しつけた苦しい声でつづけた。
「どう説明したらいいでしょう、――つまり、――非常に重大な人物に関係のあることが起ったためなんです」
「…………」
「わたしの夫の役所の関係なんです。――どうしても避けられない事情になって来たんです。すみませんが、子供部屋と代っていただきたいんです。アニュータがあっちへ、あなたがたの荷物や寝台の一つを運びますから」
 伸子が、
「大変わかりにくいお話だこと!」
というのにつづいて素子が、
「妙じゃありませんか」
と言った。
「わたしたちは、きのうこの部屋に移って来たばかりですよ。あなたがたは、この部屋に、そういう突然の必要がおこることを、おととい知っていらしたんですか。知っていて、われわれと契約したんですか」
「どうしてそんなことがあるでしょう! ほんとに思いがけないことになったんです」
 細君の混乱ぶりはとりみだしたという以上で何か普通でない事件がふりかかって来ようとしていることを示している。それはこの大柄で、不似合な耳飾りをつけ、娘にかかりきっている細君に深い恐怖を抱かせる種類のことであり、部屋の問題も、それが夫の命令であるからというばかりでなく、夫婦を危機から守るためにも、細君として必死な場合であるらしく見えた。しかし、おそらく決して説明されることのないだろうその内容は不明で、したがって伸子も素子も、いきなりきのううつって来たばかりの部屋をあけろと云われている者の立場からしか、口のききようもないのだった。
 素子は、
「残念ですが、わたしどもに、あなたの話はのみこめないんです」
と云った。
「あんまり例外の場合だから。――あなたの旦那様とお話ししましょう。そして、わたしどもに話がわかることだったら、そのとき荷もつは動かしましょう。――この部屋がいるのは何時ごろからです?」
「多分夜だろうとは思うんですが……」
 細君は、途方にくれたように両手をねじりつづけ、顔のむらむらが一層濃くなった。そのまましばらく立っていたが、急に啜り泣きのような音をたてて息を吸いこむと、ドアをあけはなしたまま部屋を出て行った。

 立ってドアをしめながら、伸子が目を大きくして、
「何のことなの?」
 小声で素子にきいた。
「何がもちあがったっていうんだろう」
 素子は不機嫌に唇のはしをひきさげて、タバコに火をつけながら、自分にも分らない事件の意味をさぐりでもするようにドアをしめて来た伸子をじろじろ見た。
「何がどうさけがたいのか知らないが、バカにしてるじゃないか、いきなりここをあけろなんて。――そんなくらいなら貸さなけりゃいいんだ」
「ほかの部屋をつかえばいいんだわ。なぜわたしたちが子供部屋へ行って、ここをあけなけりゃならないのかわからない」
 いいことを思いついたという表情で
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