、としているってことはわからないし、必要なことだとも考えられないんですね、役者[#「役者」に傍点]の生活の範囲ではうるさいつき合も、義理もきちんきちんと手おちなくやってくれて、全く後顧の憂いがないわけなんですが。これまでの役者の生活なんて、そんなことが第一義だったんですからね、無理もないが……。細君に一つもつみはないんです。けれども、わたしにはマネージャと妻はべつのものであるべきだと思えて来ているんです」
つやのいい元気な吉之助の顔の上に、沈んだ表情が浮んだ。
「あなたがた、どうお思いです? あんまり我儘《わがまま》でしょうか」
伸子も素子も、吉之助の気持がぴったりわかるだけに、すぐ返事をしかねた。
「――わたしは妻を求めているんですね。演劇そのものの話し合える……」
するとわきできいている伸子をびっくりさせるような鋭さで、素子が、
「かりにそういうひとが細君になったって、やっぱりマネージャ的必要は起って来るんじゃありませんか」
と云った。
「ほんとに、わけられるもんなのかな――あなたに、わけられますか?」
「わけられないことはないと思いますね。ほんとに芝居のことがわかっているひとっていうなら、自然自分でも舞台に立つひとだろうし、舞台に立つものなら勉強の面とマネージャ的用事と、却ってはっきり区別がつくわけですから……」
赤いパイプを口の中でころがしながら、じっと吉之助の言葉をきいていた素子は、ややしばらくして、
「なるほどねえ」
深く自分に向って会得したところがあったようにつぶやいた。
「あなたは、リアリストですね」
その云いかたに閃いたニュアンスが伸子に素子の気持の変化を感じとらせた。伸子が理解したと同じ明瞭さで、素子も、長原吉之助が求めている女性は、彼として現実のはっきりした条件をもって考えられて居り、少くとも伸子や素子たちとそのことについて話す吉之助の感情に遊びのないことを理解したのだった。
伸子は段々さっぱりしてうれしい気持になって来た。吉之助にたいする自分たちの感情にはあいまいに揺れているところがあった。素子は素子の角度から、伸子はその素子の角度に作用された角度から、吉之助としては考えてもいない過敏さが伸子たちの側にあった。吉之助の考えかたがずっと前へ行っているために、素子の吉之助に対する一種の感情やそれにひっぱられていた伸子の気分が、吉之助の新しい人間らしさにひかれるからでありながら、その一面では、やっぱりありきたりの常識のなかに描かれている俳優を対象においた気分だったということが、伸子にのみこめて来た。伸子は、心ひそかに自分たち二人の女をいくらかきまりわるく感じた。そして、改めて吉之助を友達として確信するこころもちだった。
「わたし長原吉之助が、いわゆる役者じゃなくてほんとによかったと思うわ」
「へんなほめかたがあったもんだな」
素子が笑った。吉之助も笑った。伸子は、素子のその笑いのなかにやっぱり転換させられた素子の気分を感じた。素子は、もうすっかり自分ときりはなした淡泊さで吉之助にきいた。
「ところで、あなたの希望のようなひとって、実際にいますか」
「どうなんでしょう」
彼としてどこに眼ぼしもないらしかった。
「なにしろ、歌舞伎には女形しかないんですから……」
そこにも歌舞伎の世界の封建的な変則さがあるという口ぶりだった。
四
あくる朝十時ごろ約束のガーリンが吉之助とつれだって伸子たちの室へ来た。くつろいだ低いカラーに地味なネクタイをつけて、さっぱりした風采だった。ガーリンが芸術座の名優たちとはまるでちがった顔だちで、アメリカの素晴らしい踊り手フレッド・アステアによく似たおでこの形をしているのが伸子の目をひいた。アンナ・パヴロ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァも、ああいうこぢんまりとして横にひろいおでこをもっていた。少し鉢のひらいたような聰明で敏捷なガーリンの丸いおでこは、『検察官』のフレスタコフとはちがった役柄が彼の本領を発揮させそうに思えた。メイエルホリドは、前のシーズンから構成派風の奇抜な舞台装置で、蒼白くて骨なしめいたフレスタコフを登場させているのだった。
ガーリンは、歌舞伎のきまり[#「きまり」に傍点]を直接自分の舞台の参考にしたいらしく、忠臣蔵で見たいくつかの例で吉之助に質問した。きのうの話し合いで、伸子がガーリンのいうとおりをあたりまえの日本語で表現すると、素子が、
「ああ、かけこみのきまりのことだ」
という風に補足した。
「そうですね、じゃ」
と、吉之助は洋服のまま、ホテルのむきだしの床に片膝をついて型をして見せた。
そんな間にも伸子には、ガーリンの特徴のあるおでこが目についた。ガーリンが歌舞伎の型にこれだけ興味をもつことも彼の舞踊的な素質を示
前へ
次へ
全437ページ中132ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング