B雨を黄色さで明るくしている秋の樹木と柔らかな灰色のとりまぜは、せわしいモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街の隅々に思いがけない余情をたたえさせた。
 旅行からかえった伸子たちは一時またパッサージ・ホテルに部屋をとって暮していた。日本から左団次が歌舞伎をつれてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]とレーニングラードへ来るという話が確定した。シーズンのはじめに日本の歌舞伎がロシアへ来て、二つの都で忠臣蔵と所作ごととを組合わせたプログラムで公演するという評判は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる日本人のすべてにとって一つのできごとであった。ヴ・オ・ク・スと日本大使館とがこの歌舞伎招待の直接の世話役であったから、伸子と素子とは何かの用事でどっちへ行っても、必ず一度はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来る歌舞伎の話題にであった。浮世絵などをとおして、日本のカブキに異国情緒の興味を抱いているヴ・オ・ク・スの人々の単純な期待にくらべると、日本の人たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来る歌舞伎について話すときは、深い期待といくらかの不安がつきまとった。歌舞伎が日本特有の演劇だとは云っても、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来ている人たちのなかで、ほんとに歌舞伎についていくらかつっこんで知っているのはほんのわずかの男女であった。日本にいたときだって、歌舞伎などをたびたび見ることもなく暮していた人々が、うろ覚えの印象をたぐりながら、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来るからには歌舞伎はどうしてもソヴェトの市民たちに感銘を与えるだけ美しくて立派でなくては困るような感情で噂するのだった。
 芝居ずきで、歌舞伎のこともわりあいよく知っている素子は、
「歌舞伎の花道のつかいかた一つだって、ソヴェトの連中は、無駄に観やしませんよ。舞台を観客のなかへのばす、ということについて、メイエルホリドにしろ随分工夫してはいますけれどね、歌舞伎の花道の大胆な単純さには、きっとびっくりするから」
 社会主義の国の雰囲気の中で古風な日本の歌舞伎を見るということに新しい刺戟を期待して、素子は熱心だった。
「ただ解説が問題だよ、よっぽど親切な解説がなけりゃ、組合の人たちなんかにわかりっこありゃしない」
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の主な劇場は、シーズンをとおして一定数の入場券をいろいろな労働組合へ無料でわりあてるのだった。
 歌舞伎が来れば、どうせまたレーニングラードへも行くのだからと、旅のつづきのようにホテル住居している気分のなかで、伸子は言葉すくなに人々の話をきき、話している人々の顔を眺めた。
 八月のはじめデーツコエ・セローのパンシオン・ソモロフで、保が死んだ知らせをうけとってから、伸子はすこし変った。いくらか女らしい軽薄さも加っている生れつきの明るさ。疑りっぽくなさ。美味いものを食べることもすきだし知識欲もさかんだという気質のままにソヴェトの九ヵ月を生活して来ていた伸子は、自分が新しいものにふれて生きている感覚で楽天的になっていた。どこかでひどくちがったものだった。ソヴェトの社会の動きの真面目さから自分の空虚さがぴしりと思いしらされる時でも、その痛さはそんなに容赦ない痛さを自分に感じさせるという点でやっぱり爽快であった。
 保が死に、その打撃から一応快復したとき、伸子と伸子がそこに暮しているソヴェトとの関係は伸子の感じでこれまでとちがったものになっていた。保は死んでしまった。伸子はこれまでのきずなの一切からはたき出されたと自分で感じた。はたきだされた伸子は、小さい堅いくさびがとび出した勢で壁につきささりでもするようにいや応ない力で自分という存在をソヴェト社会へうちつけられ、そこにつきささったと感じるのだった。
 こんな伸子の生活感情の変化はそとめにはどこにもわからなかったが外界に対して伸子を内気にした。ソヴェト社会につきささった自分という感じは、しきりにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来る歌舞伎の噂でもちきっている人々の感情とは、どこかでひどくちがったものだった。伸子はそのちがいを自分一人のものとしてつよく感じた。保の死んだ知らせが来たとき、伸子は失神しかけながらしつこく、よくて? わたしは帰ったりしないことよ、よくて? とくりかえした。ソヴェト社会につきささった自分という感じは、この、よくて? 帰ったりはしないことよ、と云った瞬間の伸子の心に通じるものであった。同時に、パンシオン・ソモロフの古びた露台の手摺へふさって、すべての過去が自分の体ぐるみ、うしろへうしろへと遠のいてゆくようなせつな、絶壁にとりついてのこっている顔の前面だけは、どんなことがあっ
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