サうして過ぎ、泰造の手紙によると八月一日は、平常どおり泰造は朝から事務所へ、和一郎は友人のところへそれぞれ出かけた。父も和一郎も夕飯にかえって来たが、めずらしいことに保がうちにいなかった。女中にきくと、おひる前ごろ、保が筒袖の白絣に黒いメリンスの兵児帯《へこおび》をしめたふだんのなりで、女中部屋のわきを通り、一寸友達のところへ行ってくるよ、と出かけたことがわかった。昼飯はあっちで食うからいいよと保がいうので、晩御飯はどうなさいますかときいたら、保は歩きながら、それもついでに御馳走になって来ようか。少し図々しいかな、と笑って門の方へ出て行った。
いつも几帳面に自分の出るとき帰る時間を言いおく保が、その晩はとうとう帰宅しなかった。八月二日になった。父は事務所に出勤。和一郎は在宅して、保が帰るのを心待ちしたが、その日の夕刻になっても保は帰って来ない。父が事務所から帰ったときは、和一郎が何となし不安になって、日頃保が親しくしていた二三人の友達の家へ電話をかけたところだった。保はどこへも行っていなかった。きのう来たというところもなかった。まして、家へ泊ったという返事をした友人はなかった。われらの不安は極度に高まり、二日夜は深更に到るまで和一郎と協議し、家じゅうを隈なく捜索せり。
よみ終った頁を一枚ずつ素子にわたしながらそこまでよみ進んだ伸子は、鳥肌だった。和一郎とつれだった泰造が、平常は活動的な生活のいそがしさから忘れている家のなかの隅々や、庭の茂みの中に保をさがすこころの内はどんなだったろう。伸子は、白い紙の上にかかれている文字の一つ一つを、父の苦渋の一滴一滴と思った。
三日の早朝、和一郎が念のためにもう一度土蔵をしらべた。そして、はじめて、土蔵の金網が切られていることを発見した。母の留守中土蔵の鍵は余の保管にあり。くぐりにつけられている錠はおろされたままで、くぐりごと土蔵の大戸を開けることの出来る場所の金網がきられ、それが外部からは見わけられないように綿密につくろわれていることがわかった。父と和一郎が土蔵へ入った。入ったばかりの板の間に、猛毒アリ、と保の大きい字で注意書した紙がおかれていた。地下室へ降りるあげぶたが密閉されている。そこにも猛毒アリ危険※[#感嘆符二つ、1−8−75] と警告した紙があった。
保はかくの如く細心に己れの最期のあとまでも家人の安全を考慮し居たるなり。その心を思いやれば涙を禁じ得ず。動坂の家へ出入りしている遠縁の青年がよばれた。父と和一郎とは土蔵の地下室のガラスをそとからこわして、僅かなそのすき間から二つの扇風機で地下室の空気の交換をはじめた。土蔵の地下室の窓は、東と西とに二つあったが、どっちも半分地面に出ているだけだった。一刻も早く換気せんとすれども、折からの雨にて余の手にある扇風機は間もなく故障をおこし、操作は遅々としてすすまず。――涙があふれて伸子は字が見えなくなった。幾度も幾度もくりかえして伸子はそのくだりをよんだ。父の涙とまじって降る雨のしぶきが顔をぬらすようだった。
動坂の家でそういう切ない作業がつづけられている間に、よばれた遠縁の青年が、福島県の桜山の家へ避暑している多計代の許へやられた。多計代をおどろかさないために、とりあえず、保さんはこちらに来ていませんか、とたずねて。
つづけてその先へよみすすんで、伸子は涙もかわきあがった両眼をひきつったように見開いた。手紙をもっていた手が膝の上におちた。やがてまたそれを目に近よせて熱心によみ直した。保は三月の下旬に一度死のうとしたことがあって、さいわいそのときは未然に発見されたと泰造は書いているのだった。三月下旬のある晩、まだ高校が春休み中だった保もまじえて、みんなが賑やかに夜をふかし、保だけをのこして、両親は二階の寝室へあがった。寝ついてしばらくたったとき、泰造はふと、いつも眼鏡、いれ歯、財布、時計などを入れて枕もとにおく小物入れの箱を食堂へおきっぱなしにして来たのを思い出した。泰造が階下へおりて食堂へ行こうとすると、真暗な廊下にひどくガスのにおいがした。廊下をはさんで食堂と向い合いに洋風の客間があって、そこにガスストーブがおかれている。泰造はそれを思いだしてスウィッチをきって、客間の電燈をつけた。そして、内から鍵をかけたその室にガスの栓をあけ放して保が長椅子の上に横になっているのが見つけられた。保は廊下に面した小窓が外からあくのを忘れていたのだった。その夜は母も保も共に泣き、余も思わずもらい泣きをした。こういうことがあったから、東京から行った若いものが多計代に、保さんはこっちへ来ていませんか、ときけば、それで十分母の多計代にとって保の身に何事かあったという暗示になる。そのいきさつの説明として泰造は伸子への手紙に書いているのだった。
な
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