゚させなかったでしょう――私は、殴れない人間だったのです」
自分の恐怖や弱さを飾りなくあらわしたパーヴェル・パヴロヴィッチの話は、みんなに一種の感動を与えた。老嬢エレーナも、その話に誇張があるとは云わなかった。同時に、リジンスキー教授もヴェルデル教授も、兵士たちが、どうしてもっと前に将校の殴るのをやめさせることが出来なかったかということについては話題にしないまま、やがてテーブルからはなれた。
伸子は、パーヴェル・パヴロヴィッチのエピソードから深い印象をうけた。それと同じくらいのつよさで、パンシオンの話術を感じた。この人たちの間には、品のいい話しぶり[#「品のいい話しぶり」に傍点]があるのだ。
翌る日のアベードの前、すこし早めに自分の室から出て来た伸子が素子と並んで、パンシオンの古風なヴェランダに休んでいた。隣りの家との間に扇形に枝をひろげた楓の大木があって、その葉かげを白い頁の上に映すような場所の揺椅子で、老嬢エレーナがフランス語の本をよんでいた。ヴェランダからは午後三時まえの人通りのない夏の日の大通りと、大公園の茂みと、そのそとの低い鉄柵が見えている。デーツコエ・セローの夏の日は果しなく静かである。
そこへ、広間の方からヴェランダに向ってコトリ、コトリ、床に杖をついて来る音がした。元軍医の夫人ペラーゲア・ステパーノヴァがあらわれた。彼女は、心臓衰弱で、室内を歩くにも杖がいった。赤銅がかった髪を庇がみにして、どろんと大きい目、むくんだ顔色にいつも威脅的な不機嫌をあらわしている夫人は、灰色っぽい古軍服をきている良人に扶けられて、あいている揺椅子の一つにやっと重く大きい体をおさめた。
「ふ! わたしの心臓!」
息をきらしながら、胸を抑えて頭をふった。一番近いところにいた老嬢エレーナが、ものを云わなければならなくなった。
「いかがです。また眠れませんでしたか?」
「――どこへ行ってもわたしに必要な空気が足りないんです」
「窓をあけてねると大分たすかりましょう」
ペラーゲア・ステパーノヴァは、まるで侮辱でもされたように白眼に血管の浮いた眼を大きくした。
「わたしの心臓が滅茶滅茶になってから、十年ですよ。――できることなら壁さえあけて眠りとうござんすよ」
暫くして、思いがけない質問がヴェランダのはずれにいる伸子たちに向けられた。
「日本にも、心臓のわるい人はどっさりいますか」
伸子と素子とはちょっと間誤ついた。
「日本には、心臓病よりも肺のわるい人の方が多いでしょう」
素子がそう答えた。ペラーゲア・ステパーノヴァにはその返事が不平らしかった。
「革命からあと、少くともロシアには心臓病がふえました」
ふっと笑いたそうな影が伸子の口元を掠めた。
「わたしは一八年まではほんとに丈夫で、よく活動していました。あの火事までは。――ねえ、ニコライ。わたしの心臓は全くあの火事のおかげですね」
古軍服と同じように茫漠とした表情の元軍医は、そういう妻の問いかけを珍しくもなさそうに、
「うむ」
と云った。
「もちろんそうですとも、ほかに原因がありようないんです」
椅子によせかけてあったステッキをとって、コトコトとヴェランダの木の床を鳴らした。
「一八年にわたしどもはエストニアにいたんです。良人は病院長、わたしは婦長として。病院は、その村の地主の邸だったんですがね、何ていう農民どもでしょう? そこへ火をつけたんです。屋敷ばかりではなく、ぐるりの森や草原へまで――」
息をきらして、ペラーゲア・ステパーノヴァは話しつづけた。
「その晩だって、わたしどもはちゃんと屋根に赤十字の旗を立てておきました。ねえ、ニコライ。わたしたちの赤十字の旗は二メートル以上の大きさがありましたね」
「うむ」
「わたしどもは、夢中になって負傷者や病人を火事の中から救い出しました。眉毛をやいたものさえいませんでしたよ。その代り、わたしどもは、ほんとうに着のみ着のまま」
ペラーゲア・ステパーノヴァは揺椅子の上に上体をのり出させた。そして白眼に血管の走っている二つの大きな眼で、伸子、素子、老嬢エレーナをぐるりと見まわしながら、
「ほんとの一文なし!」
むき出した歯の間から低い声で云って、左手の人さし指のさきを、拇指の爪ではじいた。
「革命は、わたしの心臓をこわしただけですよ」
革命のときのことを知らない伸子の顔にしぶきかかるような憎悪がペラーゲア・ステパーノヴァの話ぶりに溢れた。伸子は食堂へゆっくり歩いて行く廊下で素子に云った。
「あんな話しかたって、実に妙ね。そんな一文なしになったのなら、どうしてこんなところに来ていられるんでしょう」
リザ・フョードロヴナのところへ、良人の技師が来ることがあった。理科大学の上級生で、ラジオ放送局に実習生としてつとめている十
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