N※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の中央美術館でひらかれたゴーリキイ展を見に行ったとき、伸子は、そこでゴーリキイに子供のときの写真が一枚もないことを発見した。そして赤坊のときからの写真をどっさりもっている自分に思いくらべた。それにつれて、写真に対する自分の浅薄さを非常に苦しく自覚したことがあった。母親と仮借なく対立しながら、父にだけは批評なしに甘えられそうに思っていた自分の心の姿も、伸子にはじめて同じような醜さとして見えた。父の泰造が、よく云っていた見識とか常識とかいうことも、窮極では、母の多計代の量見とどこまでちがったものだったろう。
 泰造は役所や役人ぎらいであった。大学を出たばかりで勤めた文部省の営繕課をやめたいばかりに、若い旧藩主のお伴のような立場でイギリスへ行った。泰造が官庁の建築家として完成したのは札幌の農科大学のつましい幾棟かの校舎だけであった。伸子が十九のとき札幌へ行ってみたら、その校舎は楡の樹の枝かげに古風な油絵のように煉瓦建の棟を並べていた。外国から帰ってから泰造はずっと民間の建築家として活動して来ている。
 泰造はよく、判断のよりどころのように常識があるとか、ないとかいうことを云った。それがイギリスには在って日本にはないものであるかのように「コンモンセンス」と英語で云って、常識が低いとか、常識がないとか云うことは、泰造にとって軽蔑すべきことだった。でも泰造が、あるとかないとか重々しくいう常識というものは、どういうものだったのだろう。考えつめながらもお父様というよび名が心にうかぶとき、伸子は懐しさにうごかされた。泰造の暖くて大きくてオー・ド・キニーヌの匂いのする禿げ頭をしのんだ。そのなつかしい父に、伸子は自分について発見していると同じ性質の浅薄を感じた。父の泰造も、つきつめてみればほんとに常識と呼ぶだけつよい常識はもっていないのに、コンモンセンスと英語でいうようなところがある。ほんとに分別にとんだ常識というものなら、資本主義の一つの国で法律が共産党を禁じるという事実があるなら、とりも直さずそのことがそういう改革的な政党の生れるような社会的条件をその国がもっていることを語っているのだと、理解するはずだった。
 五月の夜、若葉の香の濃い並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》のアーク燈の下をぞろぞろ散歩しているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人々にまじって歩きながら、伸子はこの群集の流れの中で、あの赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]を負っているのは自分だけだと思うと変な気がした。わきに並んで、時々腕をくみ合わせたりして歩いている素子にさえ、伸子のその奇妙な感じはわかっていない。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活は、伸子を、日本にいたときはあることさえわからなかった広い複雑な社会現象のなかへつき出した。伸子はそれだけ自由にのびやかになった。そしたら、これまで気づかずにいたいろんな意味での赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]が、自分にかかっていて、周囲に動いているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人たちにはかかっていないことを、見出しているのだった。
 こういう心の状態で夜の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》を散歩しているときなどに、伸子がもうちょっとで素子に話しそうになっては、話さなかった一つの気もちがあった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来る年の秋、駒沢の奥の家に素子と住んでいたころ、素子が買って来て伸子も読んだブハーリンの厚い本の中に書いてあったことにつながっていた。駒沢の、柘榴《ざくろ》の樹のある芝生に庭を眺めながら伸子はその本をよんで、今日の社会で資本というものが演じている役割や働く階級の歴史的な意味を知り、自分たちの属している小市民層というものの、どっちへでも動く可能をもった浮動的な立場の本質を知った。そのころ、伸子は父の泰造の建築家という仕事がもっている社会的な関係に新しく目をひらかれた。たとえ泰造がローヤル・アカデミーの特別会員であろうとも、アメリカの建築学会の名誉会員であろうとも、今の日本で建築家として働く佐々泰造は、日本の、建築工事を起すだけの金のある人々に奉仕するものであることを伸子は知った。そうわかって、泰造が折にふれてもらしていた依頼者の我ままな注文に対しての鬱憤に、娘として同情をもった。
 ところが、赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]は、伸子のその理解を、もう一遍ひっくりかえしにして見せた。泰造のうそのない役人ぎらいは、そのまま泰造を、金をもっている人々ぎらいの人間にはしてはいないという現実を、伸子は理解したのだった。
 父の泰造のバロン、バロンとよんで話す或る富豪は美術と音楽の愛好者であ
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