ウんに云わないで下さい」
「心配しないでいいのよ、ニューラ。――でもあなたは淋しいのよ、一人ぼっちすぎるのよ、だから、あなたには組合がいるのに」
 室を出て行こうとするニューラに伸子は、外套を着ながら云った。
「犬が来ても、あなたは自分が正直なニューラだということを考えて、こわがっちゃ駄目よ」
 四時に、伸子は素子とうち合わせてある菜食食堂の二階へ行った。普通の食堂とちがってあんまり混んでいない壁際の小テーブルに席をとり、その席へこれから来る人のあるしるしに向い側の椅子をテーブルにもたせかけた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の気候が春めいて来てから、素子は、日本人の体にはもっと野菜をたべなければわるい、と云いはじめた。そこで、三日に一度は菜食食堂へ来ることになったのだった。
 素子の来るのを待ちながら、伸子はそこになじむことのできない詮索的な視線であたりを眺めていた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でも食堂へ来て食べるひとは、女よりも、男の方が多かった。ここでも大部分は男でしめられているのだったが、菜食食堂でたべる男たちは、概してゆっくり噛んでたべた。連れ同士で話している調子も声高でなく、よそではよく見かけるように食事をそっちのけで何かに熱中して喋り合っているような男たちの光景は、ここで見られなかった。常連の中には、髪を肩までたらしたトルストイアンらしい風采の男もある。伸子がみていると、菜食食堂へ来る人は、みんな体のどこにか故障があって、内心に屈託のある人のようだった。さもなければ、自分の食慾に対して何かその人としてのおきてをもち、同時にソヴェト政権の驀進《ばくしん》力に対しても何かその人だけの曰くを抱いていそうな人たちだった。こういう会食者たちに占められている菜食食堂の雰囲気は、体温が低く、じっとりと人参やホーレン草の匂いに絡み合っているのだった。伸子は落付きのわるい顔をして、ちょいちょい食堂の壁の高いところについている円い時計の方を見あげた。
 素子は二十分もおくれた。
「ああおそくなっちゃった。何か註文しておいた?」
「あなたが来てからと思って……」
「じゃ、すぐたのもうよ」
 二人は薄桃色の紙によみにくい紫インクでかかれた献立表を見て食べるものを選んだ。
「どうした? 来たかい?」
 泥棒詮議のことを素子が訊いた。
「わたしが出かけるまでは何にも来なかったわ」
 素子は存外こだわらず、
「ま、いいさ」
と云った。
「われわれの部屋だって鍵ひとつないんだから、犬に嗅がせるなら嗅がしてみるさ」
 アストージェンカの室へ移ってから、伸子と素子の生活条件は、一方では前よりわるくなった。室はせまくてぎゅうぎゅう詰めだし、テーブルは一つしかないのを、二人で両側から使っている有様だった。けれども新しい生活のそんな窮屈ささえもモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ではあたりまえのこととして伸子が却って落付けたように、素子もアストージェンカへ来てから、大学の講義をききはじめ、神経質でなくなった。泥棒さわぎにしろ、そのことに伸子がいくらかひっかかっているような状況だのに、素子はその点を伸子がひそかにおそれたよりも淡泊にうけた。
 菜食食堂を出て伸子と素子とは散歩がてら大学通りの古本屋へまわった。よごれた白堊の天井ちかくまで、三方の壁を本棚で埋めた広い店内はほこりぽくて、夜も昼も電燈の光で照らされていた。入れかわり立ちかわりする人の手で絶えず上から下へとひっくりかえされている本の山のおかれている台の脚もとに、繩でくくられたクロポトキン全集がつまれていた。伸子は偶然、一九一七年から二一年ごろに出版された書物だけが雑然と集められている台に立った。その台には、ひどい紙だし、わるい印刷ではあるが、この国内戦と飢饉の時代にもソヴェトが出版したプーシュキン文集だのゴーリキイの作品集、レルモントフ詩集などが、今日ではもう古典的な参考品になってしまったプロレトクリトのパンフレットなどとまじっている。
 伸子がその台の上の本を少しずつ片よせて見ているところへ、素子が、より出した二冊の背皮の本をもって別な本棚の方から来た。
「なにかあるのかい」
「――この間のコロンタイの本――こういうところにならあるのかしら」
「さあ。――何しろもうまるでよまれてないもんだから、あやしいな」
 素子が勘定台へ去ったあと、なお暫く伸子はその台の本を見ていた。
 一週間ばかり前日本から婦人雑誌が届いた。それに二木準作というプロレタリア作家が、自分の翻訳で出版したコロンタイ夫人の「偉大な恋」について紹介の文章を書いていた。二木準作は、その作家もちまえの派手な奔放な調子でコロンタイの恋愛や結婚観こそ新しい世紀の尖端をゆくモラルであり、日本の旧套を否定す
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