ス。「ラップ」と略称されているロシアのプロレタリア作家同盟の人たちのこころもちは、ゴーリキイに対してこういう表現をするところもあるのかと、伸子は少しこわいように思ってじっとその漫画を見た。
この頃になってルナチャルスキーの評論をはじめ、マクシム・ゴーリキイの作家生活三十年を記念し、ロシアの人民の解放の歴史とその芸術に与えたゴーリキイの功績が再評価されるようになると、文学新聞をふくめてすべての出版物のゴーリキイに対しかたが同じ方向をとった。
この間の日曜の晩、アルバート広場で買った「プロジェクトル」にも漫画に描かれたマクシム・ゴーリキイという一頁があった。それはどれも「小市民」や「どん底」の作者としてゴーリキイが人々の注目をあつめはじめた時代にペテルブルグ・ガゼータなどに出たものだった。一つの漫画には、例の黒いつば広帽をかぶってルバーシカを着たゴーリキイがバラライカを弾きながら歌っている記念像の台座のぐるりを、三人のロシアの浮浪人が輪おどりしていて、その台座の石には「マクシム・ゴーリキイに。感謝する浮浪人たちより」とかかれている。ゴーリキイの似顔へ、いきなり大きなはだしの足をくっつけた絵の下には「浮浪人の足を讚美する頭」とかかれている。ゴーリキイきのこ[#「きのこ」に傍点]という大きな似顔きのこのまわりから、小さくかたまって生えだしているいくつもの作家の顔。ゴーリキイが「小市民」のなかで苦々しい嫌悪を示した当時の小市民やインテリゲンツィアが、「やっぱり、これも読者大衆」としてゴーリキイを喝采しているのを見て、げんこ[#「げんこ」に傍点]をにぎっていらついているゴーリキイ。それらはみんな一九〇〇年頃の漫画であった。「プロジェクトル」のゴーリキイ特輯号のために新しく描かれた漫画では、大きな鼻の穴を見せ、大きな髭をたらした背広姿の年をとったゴーリキイが、彼にむかって手桶のよごれ水をぶっかけている女や竪琴《たてごと》を小脇にかかえながら片手でゴーリキイの足元に繩わなをしかけようとしている男、酒瓶とペンとを両手にふりまわしてわめいている男たちの群のなかに、吸いかけの巻煙草を指に、巨人のように立っているところが描かれている。わるさをしている小人どもは、革命後フランスへ亡命している象徴派の詩人や作家たちの似顔らしかった。
「国外の白色亡命者と何のかかわりもないマクシム・ゴーリキイ」について数行の説明がついていた。イ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ン・ブーニンは、ゴーリキイが結核だということさえ捏造してゴシップを書きちらした。しかし、実際にはゴーリキイが結核を患ったことなんかはないのだという意味がかかれている。
ゴーリキイが一九二三年にレーニンのすすめでソレントへ行ったとき、理由は彼の療養ということだったと伸子も思っていた。「プロジェクトル」はそれを否定している。
ゴーリキイは、ソレントで、その乳母帽子をかぶって描かれていた自分の絵を見ただろうし、スカートをはいて「四十年」の鍋をかきまわしている婆さんとして描き出されている自分をも眺めたことだろう。そして、今は巨人として描かれている自分も。肺病だった、肺病でなかった、今更の議論も、ゴーリキイの心情に何と映ることだろう。伸子には、そういうことが、切実に思いやられた。ゴーリキイはソヴェトへ帰って来ようとしている。ソヴェトへ帰って来ようとしているゴーリキイの心の前には、どんな絵があるだろう。乳母帽子やスカートをはいた自分の絵でないことは明らかだった。ゴーリキイの心は、じかに、数千万のソヴェトの人々のところへ帰って行く自分を思っているにちがいなかった。伸子はそう思ってゴーリキイの年をとり、嘘のない彼の眼を写真の上に見るのだった。
その晩、九時すぎてから伸子が廊下へ出たら、伸子たちの室と台所との間の廊下で、ニューラが妙に半端なかっこうでいるのが目についた。伸子は、自分の行こうとしているところへ、ニューラも行きたかったのかと思って、
「行くの?」
手洗所のドアをさした。どこからか帰ったばかりのように毛糸のショールを頭にかぶっているニューラは、あわてて、
「いいえ。いいえ」
と首をふり、台所へ消えた。
伸子が出て来たとき、台所のところからまたニューラの頭がちょいとのぞいた。どうしたのかしらと思いながら、伸子がそのまま室へ入ろうとするとうしろから、
「|お嬢さん《バリシュニヤー》!」
すがるようなニューラのよび声がした。伸子は少しおどろきながら台所の前まで戻って行った。
「どうしたの? ニューラ」
「邪魔して御免なさい」
「かまわないわ。――でも、どうかしたの? 気分がわるいの?」
「いいえ。いいえ」
ニューラはまたあわてたように首を左右にふりながら、浅黒い、鼻すじの高い半分ギリシア人の
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