ネ芸《チルク》を見すぎる、というヴェラの言葉も、伸子には象徴的にきこえた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に曲芸をやる劇場は現実には一ヵ処しかないのだし。――
伸子は、テリアの小犬を自分の膝からディヴァンの上へおろした。そして素子に日本語で、
「そろそろかえらない?」
と云った。
「そうしよう」
そこで伸子と素子とは、ヴェラ・ケンペルの家から帰ったのであった。帰るみちで、伸子は素子に、
「あの私、退屈だわ、はわたしたちに云ったことなの?」
ときいた。
「さあ……ああいうんだろう」
素子は、案外気にとめずヴェラ・ケンペルの文学的ポーズの一つとうけとっているらしかった。
ときをへだてた今夜、素子と本をよみ終えて、雑談のうちにそのときの情景をまた思いおこすと、伸子たち二人を前におきながらヴェラがニコライに甘えて、じっとニコライの眼を見つめながら、書くものがむずかしいと云うと訴えたことも、退屈だわ、と云ったことも、伸子にいい心持では思い出されなかった。あの雰囲気のなかには、伸子たちにとって自然でなく感じられるものがあった。伸子たちが、どうだったらば、ヴェラ夫妻にあんな雰囲気をつくらせないですんだだろう? この問いは、伸子の心のなかですぐポリニャークに掬い上げられたことと、くっついた。伸子がどうであればポリニャークに、あんなに掬い上げられたりしなかっただろうか。伸子は、ひろげた帳面の上に、鉛筆で麻の葉つなぎだの、わけのわからない円形のつながりだのを、いたずら書きをはじめた。
この前の日本文学の夕べのとき会ったノヴィコフ・プリヴォイの海豹《アザラシ》ひげの生えたおとなしいが強情な角顔が思い浮かんだ。あの晩、プリヴォイ夫妻は伸子のすぐ左隣りに坐っていた。ノヴィコフは伸子に、お花さんという女を知っているか、ときいた。ノヴィコフは日露戦争のとき、日本の捕虜になって九州熊本にいた。そのとき親切にしてくれた日本の娘が、お花さんという名だったのだそうだ。ノヴィコフの家庭では、お花さんという名が、彼の波瀾の多かった半生につながる半ば架空的な名物となっているらしくて、白絹のブラウスをつけた細君もわきから、
「彼は、どうしてももう一度日本へ行って、お花さんに会う決心だそうですよ」
と笑いながら云った。
「わたしは、お花さんによくお礼をいう義務があるんだそうです」
クロンシュタットの海兵が反乱をおこしたとき連座して、一九一七年までイギリスに亡命して暮したプリヴォイ夫妻は英語を話した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の住宅難で自分のうちに落付いた仕事部屋のないプリヴォイは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]郊外に出来た「創作の家」で、「ツシマ」という長篇をかいているところだった。
石垣のように円をつみ重ねたいたずらがきを濃くなぞりながら、伸子は、あのプリヴォイがたとえ酔ったからと云って、伸子を掬い上げたりするだろうか、と思った。それは想像されないことだった。プリヴォイには、そういう想像がなりたたない人柄が感じられる。けれども、ポリニャークもプリヴォイも同じロシアプロレタリア作家同盟に属している。――
「ねえ、プロレタリア作家って、ほんとうはどういうの?」
伸子に訳してきかせたあとを一人でよみつづけていた素子が、
「――どういうのって……どういう意味なのさ」
本の頁から顔をあげずにタバコの灰を指さきでおとしながらききかえした。
「何ていうか――規定というのかしら――こういうものだという、そのこと」
「そんなことわかりきってるじゃないか」
すこし気をわるくしたような声で素子が答えた。
「労働者階級の立場に立つ作家がプロレタリア作家じゃないか」
「そりゃそうだけれどさ……」
革命後にかきはじめた作家のなかには、プロレタリア作家と云っても、偶然な理由からそのグループに属している人もある、と伸子には思えた。
「ポリニャークなんかもそうじゃない? 革命のとき、偶然金持ちでない階級に生れていて、国内戦の間、ジャガ薯袋を背負って、避難列車であっちこっちして『裸の年』が認められたって……プロレタリア作家って文才の問題じゃないでしょう?」
「だからルナチャルスキーが気をもむわけもあるんだろうさ――前衛の眼をもてって――」
伸子は、ひょっと、自分がもし日本から来た女の労働者だったら――工場かどこかで働くひとであったら、同じ事情のもとでポリニャークはどうしただろうか、と思った。それから、ヴェラ・ケンペルも。やっぱり、気のきかない客だということを、わたし退屈だわ、と云う表現でほのめかしただろうか。
日本の政府はソヴェトへの旅行の自由をすべての人に同じようには与えないから、公然と来られるものはいつも半官半民の特殊な用向の日本人か
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