塔vをはいている足さきに力をいっぱいこめて、足を下へおろそうとした。
「おろして!」
 思わず英語で低く叫ぶように伸子は云った。
「おろして!」
 背が高くて力のつよいポリニャークの腕の上から、伸子がいくら足に力をこめてずり落ちようとしても、それは無駄であった。伸子は、左手でポリニャークの胸をつきながら、
「声を出すから!(ヤー、クリチュー!)」
と云った。ほんとに伸子は、秋山と吉見を呼ぼうと思った。
「ニーチェヴォ……」
 ポリニャークは、またそう云って、その室の中央にある大きいデスクに自分の背をもたせるようにして立ちどまった。そこで伸子を床の上におろした。けれども、伸子の左腕をきつくとらえて、酔っている間のびのした動作で、伸子の顔へ自分の大きな赧い顔を近づけようとした。伸子は、逃げようとした。左腕が一層つよくつかまれた。顔がふれて来ようとするのを完全に防ぐには、背の低い伸子が、体をはなさず却ってポリニャークに密着してしまうほかなかった。くっつけば、背の低い伸子の顔は、丁度大男のポリニャークのチョッキのボタンのところに伏さって、いくら顔だけかがめて来ようとも、伸子の顔には届きようがないのだった。
 伸子の右手は自由だった。ザラザラする羅紗のチョッキの上にぴったり顔を押しつけて、伸子は自由な右手を、ぐるっとポリニャークの腕の下からうしろにまわし、デスクの方をさぐった。何か手にふれたら、それを床にぶっつけて物音を立てようと思った。
 そこへ、廊下に靴音がした。あけ放されているドアから、室内のこの光景を見まいとしても見ずにその廊下を通ることは出来ない。
 伸子は、ポリニャークのチョッキに伏せている眼の隅から赫毛のアレクサンドロフが敷居のところに立って、こちらを見ている姿を認めた。伸子は、デスクの方へのばしていた手で、はげしく、来てくれ、という合図をくりかえした。一足二足は判断にまよっているような足どりで、それから、急につかつかとアレクサンドロフが近づいて、
「ボリス! やめ給え。よくない!」
 ポリニャークの肩へ手をかけおさえながら、伸子にそこをはなれる機会を与えた。

 伸子は白々とした気分で、テーブルの出ている方の室へ戻って来た。いちどきに三人もの人間が席をたって、はぬけのようになっているテーブルに、ザクースカのたべのこりや、よごれた皿、ナイフ、フォークなどが乱雑に目立った。ポリニャークの席にウォツカの杯が倒れていて、テーブル・クローズに大きい酒のしみができている。秋山宇一と内海厚は気楽な姿勢で椅子の背にもたれこんでいる。反対に、素子がすこし軟かくなった体をテーブルへもたせかけるように深く肱をついてタバコをふかしている。伸子がまたその室へ入って行って席についたとき、素子のタバコの先から長くなった灰が崩れてテーブル・クローズの上に落ちた。
「――どうした? ぶこちゃん」
 ちょっと気にした調子で素子がテーブルの向い側から声をかけた。
「気分でもわるくなったんじゃない?」
 伸子は、いくらか顔色のよくなくなった自分を感じながら、
「大丈夫……」
と云った。そして、ポリニャークに掬い上げられたとき少し乱れた断髪を耳のうしろへかきあげた。
 程なく、ポリニャークとアレクサンドロフが前後して席へもどって来た。
「さて、そろそろ暖い皿に移るとしましょうか」
 酔ってはいても、格別変ったところのない主人役の口調で云いながら、伸子の方は見ないでポリニャークは椅子をテーブルにひきよせた。テーブルの角をまわってポリニャークの右手にかけている伸子は、部屋へ戻って来たときから、自然椅子を遠のけ気味にひいているのだった。
「われらの食欲のために!」
 最後の杯があけられた。アレクサンドロフが伸子にだけその意味がわかる親和の表情で、彼女に向って杯をあげた。ポリニャークは陽気なお喋りをやめ、新しく運びこまれたあついスープをたべている。食事の間には主にアレクサンドロフが口をきいた。部屋の雰囲気は、こうして後半になってから、微妙に変化した。しかし、少しずつ酔って、その酔に気もちよく身をまかせている秋山宇一や内海厚、素子さえも、その雰囲気の変化にはとりたてて気づかない風だった。

 伸子たち四人が、ポリニャークのところから出て、また雪の深い停留場からバスにのったのは、十一時すぎだった。市中の劇場がはね[#「はね」に傍点]た時刻で、郊外へ向うすべての交通機関は混み合うが、市の外廓から中心へ向うバスはどれもすいていた。伸子たち四人は、ばらばらに座席を見つけてかけた。秋山も素子も、バスのなかの暖かさと、凍った雪の夜道を駛ってゆく車体の単調な動揺とで軽い酔いから睡気を誘われたらしく、気持よさそうにうつらうつらしはじめた。伸子がかけている座席のよこの白く凍った窓ガラスに乗
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