聶ルのふくらみに似たまるみをもっている。これが、高等学校の最上級になろうとしている二十歳の青年の手紙だろうか。来年は大学に入ろうという――。保は、そのよせ書きの中で保だけまるで一人だけ別なインクとペンを使ったのかと思えるほど細い万遍なく力をぬいた字で、こうかいていた。「僕が東京高校へ入学したとき、お祝に何か僕のほしいものを買って下さるということでした。僕には何がほしいか、そのときわからなかった。こんど、僕は入学祝として本式にボイラーをたく温室を拵《こしら》えて頂きました。これこそたしかに僕のほしいものです。」そして、保は、簡単な図をつけて温室の大きさやスティームパイプの配置を説明しているのだった。
 動坂の家風は、すきだらけであったが、親に子供たちが何かしてもらったときとか、見せてもらったりしたときには、改まってきちんと、ありがとうございました、と礼を云わせられる習慣だった。言葉づかいも、目上のものにはけじめをつけて育ったから、二十歳になった保が、こしらえて頂いたという云いかたをするのは、そういう育ちかたがわれしらず反映しているとも云えた。しかし、保は小学生の時分から花の種を買うために僅の金を母からもらっても、収支をかきつけて残りをかえす性質だった。お母さまから頂いたお金三円、僕の買った種これこれ、いくらと細目を並べて。
 伸子が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しの明け暮れの中で見て感じているソヴェト青年の二十歳の人生の内容からみると、たかだか高等学校に入ったというような事にたいして、温室をこしらえて頂いた、と書いている保の生活気分はあんまりおさなかった。高等学校に入ったということ、大学に入るということそれだけが、ひろい世の中をどんな波瀾をしのぎながら生きなければならないか分らない保自身にとって、どれだけ重大なことだというのだろう。
 多計代にとってこそ、それは、佐々家の将来にもかかわる事件のように思われるにちがいなかった。長男の和一郎は、多計代にやかましく云われて一高をうけたが、失敗すると、さっさと美術学校へ入ってしまった。多計代は明治時代の、学士ということが自分の結婚条件ともなった時代の感情で、息子が帝大を出ることの出来る高校に入ったということに絶大の意味と期待をかけているのだった。その感情からお祝いをあげようという多計代の気もちが、それなり、お祝いを頂く、という保の気もちとなっているところが伸子に苦しかった。辛辣にならないまでも、保は保の年齢の青年らしく、家庭においての自分の立場、自分の受けている愛情について、つっこんで考えないのだろうか。あんなに問題をもっているはずの保が、和一郎と妹のつや子の間にはさまって、団欒《だんらん》という枠のうちに話題までおさめて書いている態度が、伸子にもどかしかった。どうして保は、もっと勝手にさばさばと、たよりをよこさないのだろう。そう思って考えてみると、伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てから保は二度たよりをよこしたが、二度ともみんなとの寄せ書きばかりだった。
 ――ふと、伸子は、あり得ないようなことを推測した。多計代は、もしかしたら保が伸子に手紙をかくことを何かのかたちで抑えているのではないだろうか。姉さんに手紙を出すなら、わたしに一度みせてからにおし。対手が保であれば、多計代のそういう命令が守られる可能もある。伸子が動坂の家へ遊びに行って、保と二人きりですこしゆっくり話しこんでさえ多計代は、その話の内容を保から話させずにいられないほど、自分の所謂《いわゆる》|情熱の子《パッショネート・チャイルド》から伸子をへだてようとして来た。多計代と保の家庭教師である越智との感情が尋常のものでなくなって、その曖昧で熱っぽい雰囲気にとって伸子の存在が目ざわりなものとなってから、多計代のその態度は、つよく目立った。越智とのいきさつは、日没の空にあらわれた雲の色どりのように急に褪せて消えたが、伸子の影響から保を切りはなそうとする多計代の意志は、それとともに消滅しなかった。保や和一郎のことについて伸子が批評がましくいうと、多計代は、わたしには自分の子を、自分の思うように育てる権利があるんだよ。黙っていておくれ。――まるで、伸子は、子の一人でないかのように伸子に立ち向った。保を伸子から遠のけておくのは母の権利だと考えているのだった。それを思うと、伸子の眼の中に激しい抵抗の焔がもえた。多計代に母の権利があるというならば、姉である自分には、人間の権利がある。責任もある。保は人間らしい外気のなかにつれ出されなければならないのだ――。
 伸子は膝の上からつくろいものをどけて、ちゃんと長椅子にかけなおした。そして日本からもって来ている半ペラの原稿用紙をテーブルの上においた。
「みなさ
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