ンる?」
「あわてなくったっていいさ」
強いて椅子の上で体を重くしている声で素子が云った。
「でも、そのときになって、部屋がないと困ることよ」
「あすこは、そんなことないさ」
「どうしてわかる?」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で何か全ソヴェト的な規模で集会がもたれるような時、ホテル・パッサージは、一室に四つの寝台を入れて人々を泊めていることさえあった。
「われわれが、何をしたっていうんだ、ばかばかしい!」
白眼がつよく光る視線で素子は伸子を見た。
「ぶこ[#「ぶこ」に傍点]まで一緒になって、あわてる必要がどこにあるんだ」
不安が伸子の心を掠めた。素子は、いつものでん[#「でん」に傍点]で、ルケアーノフに対して居直れば、引越しがのばせるような気でいるのではないだろうか。ソコーリスキーのところで伸子たちが借りたばかりの室を急に居どころを変えた保健人民委員にとられて、ルケアーノフへ来た時の事情と、このさし迫った引越しとでは、全然たちがちがう問題なのだった。
「――ともかく、あしたパッサージへ行ってみるわ」
「そりゃ、御勝手ですがね」
そりゃ、御勝手ですがね――伸子の防寒靴の下に昼間はゆるみ出した早春のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の雪がきしみ、素子のその言葉もきしむ。
ホテル・パッサージの入口のドアの上には、伸子たちがいたころのとおり、紫インクで書いた正餐《アベード》の献立がはり出されていた。防寒靴《ガローシ》をあずかる階下の玄関番が、はじめて見る若い男にかわっている。伸子は赤や緑で小花模様を出した粗末な絨毯の上を事務所《カントーラ》へのぼって行った。
事務所《カントーラ》の椅子は、ちっとも変っていなくて「五日週間、間断なき週間」と、壁にはり出されているのは、隣りの中央郵便局の内部と同じだった。葡萄色のルバーシカの上に背広の上衣を着た四十がらみの男が事務机の前にいる。それが、もとからいる人かどうか伸子には思い出せないのだった。
伸子は、事務机のこちら側に立った。そして、あっさり切り出した。
「こんにちは」
「こんにちは」
「部屋があるでしょうか」
「いっぱいです《ポールノ》」
簡単で、実にはっきりした答えだった。伸子は思わず瞬きした。いまは満員かもしれないけれども、絶えずひとの動いているホテルのことだから、一つの室も決して空かないということはあり得なかった。
「わたしたちは、一つ室がほしいんです、七四番のような室でもいいし、七〇番のように小さい室でもいいんです」
葡萄色のルバーシカの男は、新しい注意でデスクの向う側に立っている伸子を見あげた。伸子が、これまでもこのホテルに泊っていたことのある者だという意味が通じた。
「部屋はいついるんですか」
「早いほど結構です」
伸子は、事情を説明した。
「とにかく、きょうは満員です。あした来て見て下さい」
「何時ごろ来ましょうか」
「いまごろでいいです」
伸子は、まっすぐアストージェンカの下宿へ帰って来た。ベルにこたえて入口のドアをあけたのはルケアーノフの細君だった。伸子を見て、ほほえんだ細君のまじめな碧い瞳にかすかな不安がある。伸子たちが果してどこかに部屋を見つけられるだろうか――期限に部屋をあけられるだろうか。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の住宅難は決して緩和されていないのだった。
素子も、やっぱり落付けずにいて部屋へ入って来た。伸子を見ると、すぐ、
「どうだった」
ときいた。
「いっぱい!」
「いっぱい?――あすこで、そんなことがあるのかな」
だまって外套をぬいでいる伸子に、
「まあいいや。どうせ、まだ十日もあるんだから……」
自分は交渉に出かけず、何か心当てでもありそうにいう素子の楽観を、伸子は背中をかたくしてきいた。伸子は、ホテルでも、自分たちが困っていることをよくはっきり説明した。どうしてもパッサージ以外に室を見つけるあてを持っていないことを説明した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活では、ホテルと云ってもそれはよその国での個人営業の客商売と同じ性質のものではなかったから、今の場合パッサージが伸子たちに室を与えるかどうかということは、つまりは、伸子たちがソヴェトに滞在している可能性があるかないかという客観的な条件までを間接に反映する事なのだった。きょう満員だったということは、偶然のことだったのか。或いはそうでない性質をふくむ返事だったのか。伸子は、そこがわからないで帰って来ているのだった。
伸子は、自分のその懸念を素子に話すことが出来なかった。
翌日、同じ時刻に、伸子はパッサージの事務室に現れた。きょうはきのうより混んでいて、三人の男が事務所のデスクを囲んでいた。三人の誰もが、サインやスタ
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