_]ときがあったろう。
「お金のいくらでもつかえるかたは、いいわねえ」
いくらでもお金のとれるかた、とこの細君が云わないところに伸子は、クラマールに住んでいる人々らしさを感じた。パリの市民からはなれてクラマールに住んでいるということは、その人たちがモンパルナスの流行カフェーに出入りしようとしていないということであったし、巨匠たち[#「巨匠たち」に傍点]と顔見知りになって置こうとする欲望や野心をすてている人たちであることを語っているのだった。同時に、ここの人たちには、十月末から世界を不安にしているアメリカの経済恐慌も、同じクラマール住人であってもベルネの夫婦やおばあさんがそのニュースをうけとった現実的な表情とは全く別のうけとりかたをされていた。描いている絵に、パリの市価をもたないというそのこころやすさ……ここの人たちは、どっちみち、われわれにたいした関係はないさ、と、自分たちの超然をたのしんでいるのだった。
伸子がクラマールへ引越して来た秋のころ、それからひとつきたって、冬が来て、伸子の心にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ! と絶えずささやくものが生れても、このままじっと年を越そうとして、降誕祭《ノエル》の酒の品評をしている人々。酒の話から、ひき出されてパリでアルコール中毒にかかっているある男の噂をしている人々。
「仕事の方は、どうなんだね、すこしは変ったのかい?」
「どうだかな――むしろ益々救いがたいんじゃないか」
「そいじゃ、彼はただのアル中にすぎないじゃないか」
「僕がいつも云っているとおりさ。かんじんのものをもち合わさないくせに、中毒ばかり模倣したって、どんな画家も生れちゃ来ないんだ。さか立ちしてディフォルメだけまねたってそれでピカソになれた奴は一人もいないんだ」
そう云っているのは長椅子によこになっている柴垣だった。
「どういう自分が生れて来るか、そのおれ[#「おれ」に傍点]の誕生を待ちきる辛抱が修業第一課さ」
そう云う間も柴垣は唇からはなしたパイプを宙にうかせて持ったまま、視線に注意をあつめて、亀田の細君の手もとを見守っている。ストーヴのよこに立って、彼女はコーヒーを入れかけているところだった。親友の家庭で、そこの主人よりも細君の料理に関心を示す男がある。いつかそういう習慣になっている友達の目つきで、柴垣は、亀田の細君の手もとを見ているのだった。
去年の冬もおそらくここでこんなにして、柴垣は、自分の誕生を待っていたのではなかったろうか。ほとんどすべてのひとはしばしば行動的に考える。だけれども、ほとんどすべての人が考えるように行動的には行動しない。――いまこの亀田のアトリエのはてしない雑談にまじっている自分に、伸子はそれを感じるのだった。
「ああこりゃうまい!」
パステルの研究をしているというひとが、亀田の細君のコーヒーの腕前をほめた。
「これだけにのませるところは、少くともここいらにはないだろう」
「実のところ万更《まんざら》自信がなくもありませんのよ。かえりましたら、いずれ店を出すことになりましょうから、どうぞよろしく」
「――うまい、で思い出したが、気がすこしどうにかなると、女の手がうまそうに見えるものだろうかね」
柴垣が、もちまえのポーズをくずさず云った。
「耳が気になったという例は、美術史にある」
「ゴッホだろう? 俺の話は手なんだ、女の手なんだ」
「くった奴があるのか」
みんなが笑い出した。
「都久井俊吉、ね」
それはひろく知られている作家の名であった。
「あのひとが、すこし頭の調子をおかしくしたときのことだがね、何しろ普通の病人じゃないから、家のひとも医者も、ひととおりならない苦心なんだ。本人を不安にしたり絶望させたりしないために、すこし強度の神経衰弱ということにして、静養が第一、まあ、おなかをすかせないようにするんですな、って云ったんだな。だもんだから、先生ひとすじに、おなかがすいたらもう駄目だと思いこんでしまったわけなんだ。いま食べたばっかりだのに、すきやしまいかと心配になると、たしかに空いて来た気がするんだ」
伸子はその話に耳をすまさせられた。そのひとの作品を知っている伸子には、彼が医者のいうことをひとすじに信じた、ということもうなずけるのだった。
その都久井をつれて、家族のひとと彼とが箱根へ行く途中、小田原へ降りた駅の前で、いつの間にか、都久井の姿を見うしなった。どこをさがしても見当らない。あわてていると、そのあたりに客待ちしている俥夫が、旦那、なんですかい、帽子をかぶってない、ちょいと変った旦那をさがしているんじゃないんですか、ときいた。
「うんそうだ、ってわけさ。きいてみるとたった今その俥夫が、待合へおともしたっていうんだ。じゃあ、そこへ行こうってわけで、行
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