は、しんからむっとしたような顔を伸子に向けた。
「僕は、決してホームシックなんかじゃない。僕の結婚生活って、そういうんじゃないんだ」
 じゃあ、どういうの? 誘われそうになる言葉を、伸子は自制した。日本に暮している蜂谷良作の妻は小児科の女医だった。蜂谷は、いろいろの場合、細君と子供の生活は、彼にかかわりなく自立してゆける方がいいと考えて、そのひとと結婚した。少くとも進歩的な立場で経済学なんかをやってゆこうとすれば、一生のうちに、いつ、どんなことで失職するかもしれない。日本のようなところではもっとわるいことさえ起るかもしれない。それでもいいという人とでなければ、いざというとき、財産もない自分に結婚なんかできない。いつだったか伸子は蜂谷良作からそういう話を、きいたことがあった。
「トミ子は、しっかりものかもしれないけれど、時によるとやりきれないぐらい経済主義なんだ」
「もしそうなら、それはあなたの責任じゃない?」
 伸子は、蜂谷良作のわきからはなれ、彼と足をあわせるのをやめて歩きだした。
「そういう話はおやめにしましょうよ――賛成して頂戴」
「…………」
「こんなこと話していつまでも歩いているの、なんだかいや」
 デピュテの角で地下電車の停車場へゆっくり石段を降りてゆきながら、伸子は、
「蜂谷さん、約束して」
と云った。
「わたしたち、センチメンタルにならないって約束しましょうよ、その方がいいわ」
 電車が出て行ったばかりのところと見えて、プラットフォームにはまばらに乗客が待っている。蜂谷良作は伸子の前を往ったり来たりした。
「こんやの佐々さんは、いやに何でも避けるんだなあ」
 彼は伸子の前にぴったり立ちどまった。
「僕は第一ホームシックで云っているんじゃない。それから、あなたのいうようにセンチメンタルになっているんでもない。それだけは承認して下さい」
「――むずかしい註文だわ」
 云っている言葉のがんこさに似あわず、伸子は優しい目つきだった。
「わたしは、そう感じないんですもの」
 ベルネの家の、鉄門のくぐりの外まで蜂谷良作は伸子を送って来た。
「じゃ、さようなら、どうもありがとう」
 門を入って行こうとする伸子のあとを追って、
「あした、五時、やるんでしょう?」
 蜂谷が声をかけた。資本論の講義のことだった。
「あなたは?」
「僕はもちろんつづける」
「じゃ、どうぞ。わたしもいいわ」
 門から玄関までの、小砂利をしきつめた爪先のぼりの小道をふんでゆく伸子の足音の中で、蜂谷良作の重い靴音が往来の彼方へ遠ざかった。

        九

 蜂谷良作は伸子と歩くことを迷惑がらなすぎる――
 一日外を歩いて来て、ほこりっぽくなった顔をすっかり洗い、おかっぱの髪にブラッシュをかけ、体も拭き、さっぱりした寝間着姿になって寝床によこたわりながら、伸子は天井を見ていた。室内には電燈が明るくついていて、枕元の小テーブルの上では白い猿の前肢に、伸子が手くびからはずしてかけた腕時計がかがやいている。
「僕は無事でなんかなくていいんだ」
 そう云った蜂谷良作のおしつけられた声と、そう云いながら自分のわきを歩いていた蜂谷良作の重い体の感じが、伸子の感覚に印象されている。でも、どうして彼は、伸子が柔かくこまった気持になりながら、同時にその半面で批評的にならされたほど感情的だったのだろう。
 素子がパリにいた夏のころ、クラマールの終電車にのりそこなった蜂谷が、ヴォージラールのホテルで素子の部屋へ泊ったことがあった。夜なかまで三人は露台のところで話していた。何でもなく、さっぱりとあれこれのことを話していた。
 伸子ひとりがロンドンからパリへ帰って来て、モンソー公園を一緒に散歩したりしたとき、蜂谷には、格別なところがなかった。伸子は、そういう彼に安心して、親しいこころもちをもった。
 伸子が彼との間に求めているのは、あぶなっかしいところのない友達としての感情だった。女同士の友達で女が感じあうものとは、自然どこかちがった趣のある男の友達としての蜂谷良作を、伸子は親しく感じているのだった。クラマールへ越して来る前後から、蜂谷良作は伸子の日常生活の習慣のなかに、きまった場所を占めるようになった。伸子はそれを拒絶していない。だからと云って、伸子は蜂谷に魅せられているのではないのだった。蜂谷良作は、伸子にとって、魅力があるというたちのひとではない。きわだった魅力というようなものがなく、誰の目にも彼の人柄として映っているあたりまえの身なり、あたりまえの向学心、そのすべての彼のあたりまえさが、伸子にとっての親しさであった。
 こんやは、そのあたりまえの蜂谷良作から、ちらり、ちらりと、低く揺れている焔の舌のようなものが閃いた。その焔は伸子がかきたてたのだろうか。伸子はそう
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