ォたというように栗がおちていた。伸子がめずらしがって、よろこんで、その栗を拾おうとして体をかがめると、程よく伸びてまばらな樹の間をとおして、すこしはなれたところでシャンピニオンを採っているどっかのお婆さんの水色エプロンの姿が見えたりした。
 ムードンの森は、堂々として黒い大きなかつらのように威厳があった。町の生活に近いクラマールの森は、フランスの平民の森だった。深まってゆく秋の夜ごとの大地の湿りと、昼間じゅうつよい日光に乾かされている鋼色《はがねいろ》の樹の葉のかおりがとけあって、落葉ですべりかけたり、踵の低い散歩靴のさきでわざと落葉をかき立てるようにしたりして伸子が歩いてゆく森の小道には、こころよいシャンパンに似た匂いが漂っていた。
「ああいい気もち!」
 クラマールの森が浅くて、そこに生えている樹の枝々をよく日光がさし透し、落葉樹の多いことも秋の美しさだった。
「みなさん、毎年こんないい十月を、ここで暮していらしたの?」
「そうですよ。うそでなく素晴らしいでしょう」
 画家らしく瞼の上に表情のあるすばしこい眼で柴垣弘三が答えた。
「ですからね、ここへこして来ると、誰でも二年目ぐらいにはぼーっとしちゃうんです」
「ほんと?」
 伸子は蜂谷良作をかえりみた。蜂谷良作は、いつもの黒いソフトをかぶって伸子のわきを重く歩いていた。
「そんなこともないだろう」
 柴垣は、とぎれとぎれの口笛をふいて歩きつづけていたが、やがて蜂谷のまともな返事を諷刺するように、ひとりごとめかして云った。
「――君はおそらく非常に健康な人なのかもしれないな、クラマールの気候に影響されると感じるのは、われわれみたいな、ひよわい人種だけなのかもしれない」
 それは、伸子に向って、蜂谷良作は鈍重な男であると告げているのにひとしかった。蜂谷良作は、柴垣の言葉にふくまれている刺すようなものを感じたのか感じないのか、軽い風の中にとけて輝いている西日をぼってりした顔の真正面からうけたまま歩いている。柴垣という人は、どんな絵を描くのだろう。伸子は好奇心をもった。
「いつか柴垣さんの作品を見せていただけるかしら」
 すると蜂谷が、
「フランシーヌの肖像かいたのは、柴垣君だ」
と云った。伸子はそれを見ていなかった。
「ありゃ仕様がない! 僕もうまくはないが、モデルにてんで性格ってものがない。われわれとしちゃ、ただでモデルになってくれる人は、誰でもありがたいもんですからね。ところが、彼女、あれで、すっかり背負っちまったね」
 クラマールに住んでいる日本人は、蜂谷、柴垣のほかに、もう一組の画家夫妻、フランス農村の研究をしているという吉沢準造などだった。蜂谷は散歩の道すがら、これらの人々の住居の戸口へ立ちよって、新参の伸子をひき合わせた。伸子の気が向いたとき自由に訪ねられるように、と。吉沢準造が部屋をかりている家というのは、クラマールの端れで、庭の小道づたいに裏へまわって行くと、広々とした畑に向って葡萄棚のあるいかにも田舎づくりの二階だった。亀田夫妻は、どこかの裏庭のようなところに建っているかなり大きくて清潔な物置の二階を、画室兼住居にして暮して居り、蜂谷が引きうつった住居は一番電車通りに近くて、サン・トアンの九八番地だった。伸子の下宿のあるサン・クルー街からは、それらのどの住居も五分から十分の距離にちらばっていた。すべての家々と人とがクラマールの生活のなかにはまりこみ、一九二九年の秋のさなかにあるのだった。

 十月二十九日のウォール街の恐慌は、クラマールでマダム・ベルネの庭の梨の木の下にいた伸子のところへ、きわめて穏やかな形であらわれた。
 朝、八時半にベルネのお婆さんが、
「|お早よう《ボン・ジュール》マドモアゼル」
 おきまりの、快活な響をもった声ではあるが、ごく事務的な様子で朝の茶を運んで来た。白いナプキンのしかれた盆の上には、黄色い瀬戸ものの牛乳入れと急須とがのせられている。小さい円いパンのふたかたまり。小皿の少量のジャム。球にした四つのバタ。
 あまりひろくないその部屋の大部分を占めて、寝心地のいい大きな寝台がおかれている。その裾の方に、胡桃材《くるみざい》で作った古風な衣裳棚と並んで左の壁まできっちり机がはめこまれている。伸子は、そうすることでその隅に自分を馴らそうとするようにして、窓から景色を眺めながら、その机の上で意識してゆっくりと味のうすい朝の茶をのんだ。蜂谷が二年越し、この部屋に生活したということは、伸子を不思議がらせた。彼はどこに本を置いていたのだろう。炉棚の上だろうか。もしかしたら衣裳棚をつかっていたのかもしれない。壁と衣裳棚とにはさまって、どっちの肱もつかえた感じのこの机で、蜂谷が落付いていられたとすれば、それは彼の仕事が経済学というものだったからだろ
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