齬p事にかまけて働いている泰造や伸子が、しんみりと多計代の話し相手になっていられないことも、冷淡な雰囲気として多計代をいらだたせ、そういう気分はみんな一つ流れとなって伸子にそそぎかけられるのだった。
 出発の数時間前、蜂谷良作と、哲学の勉強をしている野沢義二とがペレールへ来て、最後のばたばたに泰造をたすけた。北停車場の広いプラットフォームで、見送りに来ている人々の一人一人に万遍なく挨拶をし、握手している泰造の帽子をぬいだひろい額から気づかわしげな緊張の表情が去らなかった。
 多計代とつや子とは車窓の前に立って、光線の足りないガラスの内部から、プラットフォームを見ている。伸子は、父が、こんどの家族同伴の旅で疲れたのをはっきり感じた。多計代もやつれている。けれども、やつれて自身の病弱を主張し、気がむずかしくなっている妻をつれている泰造には、別な深い疲労のあることが感じられ、それは伸子にぼんやりした不吉感を与えるのだった。疲れにうちかってよそめには快活にさえ見える父の素振りに目を凝らしていた伸子は、泰造が自分の前へ来て、
「じゃ、気をつけるんですよ」
と握手したとき、喉の奥から急にかたまりがこみあげて来て、やっと、
「お父様も。どうぞ」
 つまった声で云った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へお着きになれば、万事吉見さんがとりはからってくれるはずですから」
 泰造はもう一度伸子の手を握りなおし、立っている人々一同に挨拶すると、列車のステップに立って、こちら向きに立った。ほとんどそれと同時に列車がすべりだした。つや子があわててステップへ出て来た。そして泰造のうしろからのり出して、伸子に向っていくども手を振った。
 ――埃っぽい小さい旋風が遠ざかってゆくように佐々のうちのものはパリを出て行く。伸子を一人のこして。目の前から去ってゆくほこりっぽい旋風はこの三ヵ月の間、伸子の皮膚をちくちく刺しつづけた。そのかすかなみみずばれや、痛みが、伸子にのこされた佐々の家庭の風変りな情愛のしるしだった。
 けさ、もう家主の帳簿の上では返却記載ずみの食器で朝の食事をしていたとき、バルコンに向ってテーブルについていた泰造が急に半白の髭のある顔を上気させ、
「このガキ、ひとりのこして帰ると思うと可哀そうだ」
 早口にそう云って、クッという音を立てながら涙をこぼした。三十歳になっている伸子を、わざとガキという表現で冗談まぎらしにいう泰造のこころもちが、伸子の心の底にまで徹った。
「だってお父様、志願してそうしたのよ、わたし」
 晴れ晴れした声でそう答えた伸子は、父の感傷を深めまいとしたのだった。
「ほんとにねえ。……折角、こうやってみんなで暮したのに――」
 多計代がナプキンをとりあげて瞼にあてた。
「お母様、もらい泣きしないでよ、ね」
 そう云ったのも、伸子とすれば、一座を元気づけ明るくしようとするためだった。しかし、結果は逆になり、多計代は、伸子がもらい泣きと云った言葉にこだわった。
「他人のマダム・ルセールでさえ、わたしの手に接吻して泣いたのに――伸ちゃんは、ちがったもんだよ、よくもよくも、もらい泣きだなんて云えたものだ」
「お母様、でも、お父様がさきだった」
 少女らしい几帳面さで云い出したつや子の膝を、つついて、伸子はだまらせた。
「そういうもんじゃありませんよ。伸子だって、われわれを機嫌よく立たせたいと思って、いろいろやっているんだ」
 いま、それを云い出すのが真実の思いなら、多計代はどうしてきょうになるまで、伸子にとってはわけのわからなかった用心ぶかさで、パリに残ってあとからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰ろうとする伸子のプランと、自分たちだけでシベリア経由で帰るときめたプランとの間に、けじめをつけて来ただろう。むしろ情愛的に云われたもらい泣きという表現は、多計代につきもどされて伸子の心に帰ったとき、とげとなって伸子を刺した。多計代と伸子とは、そのこころもちのままペレールの家を出て北停車場へ行き、その心のまま、プラットフォームの上と下とで、うすぐらいガラス越しの顔を見合った。そして多計代はパリを去った。良人につれられて、というよりも良人と末娘とをひきつれて。

 その日の、午後七時に、磯崎須美子もリオン停車場から出発してマルセーユへ向った。
 空屋になったペレールの家へ、伸子は、蜂谷良作と野沢義二の三人づれで戻った。親たちがけさまで使っていた敷布類やテーブル・クローズなどが洗濯に出すために畳まれて、人気ない食堂のテーブルの上にきちんと置かれていた。マダム・ルセールは、もう帰ってしまっていない。
 伸子がこれから引越してゆくクラマールの下宿は、住居とは別に、かなり大きい洗濯屋をやっているのだそうだった。そちらへ帰る蜂
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