ェノックされているのをききつけた。
 伸子は、事務的な、いくらかいかついところのある声で、
「|お入りなさい《アントレ》」
と云った。瞬間ためらうようにして、やがてドアがしずかにあいた。
 そこから出た顔をみると、
「あら」
 こわばった声を出した自分をきまりわるがりながら、伸子は、手をふいていたタオルをいそいで洗面台についているニッケル棒にかけた。
「どうしてここがおわかりになって?」
 そこに立っているのは、ホテルの男ではなかった。蜂谷良作だった。彼はぬいでいる帽子を片手にもって、
「ロンドンから帰られたってきいたもんだから」
 もう一遍伸子をたしかめるように見ながら云った。
「ペレールへよってみたら、あなたはこっちだということだったから」
「行きちがいにならなくてよかったこと。もうすこしで帰りかけていたところよ。ここは寝にかえるだけなんです、それと何かしたいときだけ」
 伸子は、こまった。マダム・ラゴンデールとは、ロンドンで買った大きい白い猿のおもちゃが枕の上に飾ってあるディヴァン・ベッドに並んでかけて話した。けれども、男のお客では、どこへかけてもらうにしても、自然なゆとりがないほど、部屋は狭かった。
 屋根裏の勾配が出ている低い天井の下に、たった一つディヴァンがあるきりの、枕の上におもちゃがマスコットのようにおかれている女の室へ、蜂谷良作もはいりかねる風だった。ドアのところに軽くもたれて立ったまま、
「吉見さんは、やっぱりロンドンからまっすぐ帰ってしまったんですか」
「あのひとは、たった三日ロンドンにいただけよ」
 あしたの朝素子がロンドンを立つという前の晩、ピカデリーを散歩していて、伸子は一つの明るいショウ・ウィンドウの中に白い猿のおもちゃを見つけた。下目をつかって、ちょっと沈みがちに考えている猿の表情は、どこか親切で賢いときの素子の顔つきに似ていた。いやしいところのない白い猿のおもちゃというのも珍しかった。伸子は半分ふざけ、半分は本気で、わたしの魔よけに、ね、と二人でそれを買ったのだった。
 伸子は、外出のために露台のガラス戸をしめながら、
「蜂谷さん、もしよかったら、またペレールへ逆もどりしましょうか」
 ほかに仕方もあるまいという風に伸子は自分のまわりを見た。
「――ここ、あんまりせまくて」
「それもいいが――」
 ドアに鍵をかける伸子の手もとを見ていて、蜂谷良作は、
「どうせ出るんなら、モンソーでも歩きませんか。あすこは秋のいい公園なんだ。去年もつた[#「つた」に傍点]が赤くなりはじめた時分、なかなかよかったですよ」
 ペレールへ戻るのも気のすすまない様子らしかった。伸子は蜂谷とつれだってホテルを出かけ、ペレールへ行くとは反対のブルヴァールを横切って、モンソー公園へはいって行った。
 セイヌ河のむこうにあるリュクサンブールの公園が、大学やラテン・クォーターに近くて、広い公園の隅々まですべての人のために開放されて、詩趣がただよっているのにくらべると、モンソー公園は、そこへ来る人々は身なりもきまっているというような、細工のこまかい庭園の味だった。優雅でメランコリックな情趣をつくり出す樹木の配置。岩の置きかた。その美しさは、どの部分をとっても、そのままでオペラの背景になる美しさだった。伸子は、その美しさを人工的すぎると感じた。
「僕のいるところがあんまりあけっぱなしの田舎だもんだから、たまにこんなところを歩くと、気がかわる」
 蜂谷は、晴れた秋日和を気もちよさそうに、帽子をぬいだまま歩いた。
「ロンドンは、どうでした」
「三百万人もの失業者って、ただごとじゃないのねえ。鈴なりだったことよ」
「鈴なりって――」
「英蘭銀行のちかくに、セント・ポールって大教会があってね。そこの日曜礼拝の合唱が有名なんです。それをきこうと思って出かけたらね、ローマかどこかにあるセント・ポールをまねしてその通りにこしらえてあるっていう正面の大階段の左右に、びっしり失業者だか浮浪者だかがつまっているんです。幾十段あるのか、堂々と見上げるような大階段の一段ごとに、すき間なく三人ぐらいずつ並んで、下から頂上まで、びっしりなの。朝日がよくさしていてね。そのまんなかのところを、白手袋はめてバイブルをもった人たちが、行儀よく、わきめもふらないで登ったり下りたりしているの。ああいう光景って何て云ったらいいんだろう――ロンドンにしきゃないわ」
 いつも労働力が不足していて、ポーランドやチェッコから男女の労働者をフランスへ移住させ、それがあまって来ると、その労働者たちを、国へ追いかえしているフランスでは見ることのできない凄じい街の表情であった。
「そんなところで、何しているんだろう?」
「ただそうしているんじゃないのかしら」
 セント・ポールのその大階段で
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